終戦後直後の情報は意外と少ないことや誤訳、事実誤認などがまだあると思いますが現在判っている範囲でテキストにまとめてみました。 もし間違いや勘違いを見つけた場合はご指摘をお願いいたします。 歴史に関わるものですので必ず検証可能な根拠を示していただけると嬉しいです。 根拠無く自論を展開するだけで礼節を弁えないIPさんが多いようです。
文章に関しては国内のアーケードゲームを軸に調査を進めて骨子を作成している段階であるため、 手の届いていない部分が多々あると思います。 また、年代が飛んだり、他の業界の大きなトピックが含まれてない箇所もありますが、 これはゲーム同士の関連性の確認が取り切れていない、 その業界に対する知識が足りない、 文章の構成がうまくついていないなどの理由があります。 これらについては気長に更新されるのをお待ちいただけると幸甚です。
そのように文章は手探りをしながら構成していくため、 ゲーム同士の相関関係がハッキリした場合などには予告なしで内容が変更となる場合があります。 ご了承ください。
日本においてシューティングゲームの元祖と言えば「スペースインベーダー」(1978/7, パシフィック工業)ですが、 海外に目を向けてみるとシューティングゲームというのはもっと古くから存在しており、 1976年に発売された対戦型アクションシューティングゲーム「Cops&Robbers」(1976, ATARI)や「M-4」(1977, Midway)などが市場に出回っていました。 これらはいわゆる「アーケードゲーム(*1)」と呼ばれるもので、 娯楽施設などに設置され、プレイヤーがお金を投入して遊び、企業が収益を稼ぐものです。 アーケードゲームには「ビデオゲーム」と「エレメカ」の2種類が存在しますが、 スペースインベーダーを始めとするシューティングゲームは、 TVモニタを利用して遊ぶビデオゲームに分類されるものです。
日本においてシューティングゲームの元祖と言えば「スペースインベーダー」(1978, タイトー)があまりにも有名ではありますが、 視野を海外へ向けてみるとシューティングゲームというものはもっと古くから存在していることがわかります。 例えば、1976年に発売された対戦型アクションシューティングゲーム「Cops & Robbers」(1976, ATARI)や「M-4」(1977, Midway)など、 いくつかのシューティングゲームが市場に出回っていました。 これらはいわゆる「アーケードゲーム」と呼ばれるもので、 娯楽施設などに設置され、プレイヤーがお金を投入して遊び、企業が収益を稼ぐものです。
アーケードゲーム(*1)には「ビデオゲーム」と「エレメカ」の2種類が存在しますが、 スペースインベーダーを始めとするシューティングゲームはTVモニタを利用して遊ぶビデオゲームに分類されるものです。 1970年代はエレメカだけでなく、ピンボールなど機械仕掛けで作成されたアナログゲームが大半を占めていました。 移りゆく時代の中でピンボールからビデオゲームへと方向転換を図ったメーカーも存在します。
そのような中、やっと生まれたビデオゲームはまだ歴史が浅く、 世界で一番最初に発売されたものは1970年代初頭に現れた「Computer Space」(1971/11, Syzygy)というゲームです (写真は映画「Soylent Green」(1973, アメリカ)のワンシーンより)。 Computer Spaceは4つのボタンを駆使して遊ぶシューティングゲームで、 宇宙空間内を漂っている自機を2つのボタンを使って左右に旋回させ、 1つのボタンでジェット噴射を行い前進をさせながら移動を行い、 残りのボタンでショットを撃って、自機を攻撃をしてくるUFOを撃墜するというものでした。
日本では画期的なものだったと言われている「スペースインベーダーは敵が攻撃をしてくるのだ」というアイディアは、 実は黎明期のコンピュータ事情を遡って見てみると一時的に闇に臥しただけだと理解することができます。 この章ではその黎明期の歴史からスペースインベーダーが現れるまでの歴史を軽く振り返ってみようと思います。
なお、先に誤解のないように言っておきます。 敵が攻撃してくるゲームがスペースインベーダー以前にあったことは事実として存在しますが、 それでもスペースインベーダー自体の魅力が薄れるというものではありません。 スペースインベーダーというゲームはそれくらいインパクトの大きかったゲームなのです。 どれくらいインパクトが大きかったのかにはついては後述していきます。
そもそもビデオゲーム───それはコンピュータが演算結果をモニタ上へ返すTVゲーム───というものが最初に出来上がったのは、
一体いつの時代のことだったのでしょうか?
解像度はとても低いものではありましたが、人間の視覚に記号を認識させるようなモニタを利用しているというものに限定した場合、 「EDSAC」(1949, Maurice Vincent Wilkes)というコンピュータ上で作成された 「Graphic Tic Tac Toe」(1952, A.S.Douglas)というゲームが初出ではないかと言われています。 「Tic Tac Toe」とはアメリカでの呼び名で、イギリスでは「Noughts And Crosses」、日本では「三目並べ」と呼ばれています。 もしかしたら愛称の「○×ゲーム」と呼んだほうがピンと来る方のほうが多いかもしれません。 この○×ゲームはご存知の通り、3×3の格子を用意し、2人で交互に「○」と「×」を書き込んでいき、 自分のマークを縦・横・斜めのいずれか1列に3つ並べたプレイヤーが勝ちとなる単純なゲームです。 きっとノートや黒板を使って実際に友達と遊んだりしたことがある方も多いのではないでしょうか。
ビデオゲームという枠を取り払えばコンピュータで遊べるゲームというのはもっと古くから存在していることがわかっています。 例えばGraphic Tic Tac Toeよりももっと古くより存在しているTic Tac Toeゲームは、 1950年にイギリスの物理学者であるドナルド・デイヴィスと言う物理学者が完成させた 「Noughts And Crosses」(1950, Donald W. Davies)というゲームであることが記録として残っています。 このNoughts And Crossesというゲームはこれを遊ぶためだけに作成された専用コンピュータを利用します。 また、対戦結果もモニタを通して行われるものではなく、随時、紙に印字ながら遊んでいました。 しかし、この「Noughts And Crosses」はやや時を経て移植され、Graphic Tic Tac Toeへと発展を遂げました。 ですから、Noughts And Crossesというゲームがビデオゲームのルーツを辿る上ではかなり重要となるゲームとなることは間違いなさそうですね。
さて、Graphic Tic Tac Toeより後の歴史を辿り「結果をモニタに返すゲーム」を探してみることにしましょう。 次に現れるのは1958年、ブルックヘブン国立研究所です。 この研究所に設置されたオシロスコープ画面で遊べるテニスゲーム 「Tennis for two」(1958/10, William Higinbotham/Robert V.Dvork)です(写真はオシロスコープ上に再現されたもの)。
同研究所では実験用の原子炉を完成させ、原子から大きなエネルギーを取り出せることを研究していました。 これは後に「マンハッタン計画」と呼ばれる核弾頭作成プロジェクトに繋がっていく研究です。 そのような研究に関わるものであったこともあるため、当然のことながら地域住民が不安を訴えることが多かったといいます。 そこで毎年「研究成果の見学会」という一般に向けた研究成果の公開日を設け、 研究所で行われている研究が安全であることをアピールしていくことにしました。 ところが、見学会では実験の状況を示す写真や実際に利用されている機器の展示ばかりで、 実際に見て触れることができないものが多かったこともあり、見学者にはあまり評判が良くなかったそうです。 そこでウィリアム・ヒギンボーサムが見学者に実際の機械を触らせててあげて、 その成果に触れることができるようにするにはどのようにすれば良いか、と考えついたのがこのゲームでした。
Tennis for twoはテニスコートを横から見た┴字型のコートでラリーを行うという単純なゲームで、 ダイアル式のコントローラーでラケットの角度を変え、ボールを相手のコートに打ち返します。 このゲームにはまだ「点数を争う」という概念はありませんでしたが、 当時を語る記事を当たってみると「展示には多くの人が詰めかけ行列ができるほど」の人気だったそうです。 きっと展示会へ参加した一般の人々もゲームが秘めたる限りない可能性を肌で感じていたと言えるかもしれません。 Tennis for twoは非常に人気があったため、翌年の1959年にも展示されることになりました。 このとき展示されたものは太陽系の他の惑星にかかる重力をシミュレーションし、 その中でテニスを行うとどのような状態となるのかを試せるように改良されていたそうです。 ただ残念なことに「ゲームで遊ぶ」という大きなブームを起こすまでは至りませんでした。 なぜなら、この頃はまだコンピュータというのは高価なものでしたし、 何よりもタンスが3つ並ぶほどの大きな構造をしていたからです。
Tennis for twoにもやはり原作があります。 それは「Bouncing Ball」(1951, George Yale Cherlin)という、画面上をボールが跳ね回るデモプログラムでした。 Bouncing BallはDonner社が同社のアナログコンピュータに付属させていたマニュアルに記載されているもので、 実際に動かすとボールが反射する度に音がなるというユニークなものだったと言います。 その音は黎明期のPongゲームを連想させる「Thok!」というものだったと言いますから、 どこかの時代でゲームへの影響を与えている可能性はとても高そうです。 ウィリアム・ヒギンボーサムはこのデモプログラムを参考にゲーム形式に仕上げて回路の設計を行ったのです。 回路の設計を終えたウィリアム・ヒギンボーサムは 当時所属していた計測部で、 とても仲の良かったロバート・ドゥボークに回路の作成を依頼し、 2人でつきっきりの三週間で完成させて1958年の見学会で公開できるように間に合わせたのでした。
このようにビデオゲームはかなり古くから存在していたことにはビックリします。
インタラクティブ性が高いゲームはTennis for twoのようですが、
いずれにせよ、ビデオゲームが登場してから既に50年以上経っていることには驚かされますね。
1960年になると多くのハッカーを産み出すことになったコンピュータ「PDP-1」がDEC社より発売されます。 PDP-1はマサチューセッツ工科大学に寄贈され、多くのハッカー達がプログラムを作成させる環境を作りました。 この環境で多くのゲームが産み出されることになっていきます。 そのPDP-1で最初に作成されたゲームが「Space War!」(1962/2, Stephen R.Russell)と呼ばれるゲームです(写真はPDP-1上で動くSpace War!)。
このSpace War!は2機の宇宙船がお互いに撃ち合うという対戦型のシューティングゲームで、 同大学に在籍していた天才ハッカー、スティーブ・ラッセルが作成したものでした。 彼は人工知能の研究をしていたのですが、PDP-1というコンピュータを使って何か面白いことができないかと考えており、 当時の彼がハマっていたSF小説「The Skylark of Space」(1928, Edward Elmer Smith)に刺激を受けて 「画面内に宇宙船が飛び回って戦う」というシナリオをまとめました。 ウィリアム・ヒギンボーサムもそうでしたが、 彼もまた「コンピュータで面白いこと」をさせることを考えてゲームアイディアを捻出させた点は大変興味深く、 「どうやったらみんなを楽ませることができるのか」というエンターテイメント的な発想がゲームのアイディアを生み出す原動力となるのだな、 と実感せざるを得ません。
スティーブ・ラッセルは完成させたシナリオを元に約半年の時間をかけてプログラムを組み、 1962年2月に初めて遊ぶことができるようになりました。 このバージョンで組み込まれたフィーチャーはとてもシンプルなもので、 ランダムに描かれた星の中を燃料を積んだ2機の宇宙船が飛び交って撃ち合うことができるという 一度放たれたフォトントーピド(宇宙魚雷)はどちらかの宇宙船に当たるまで飛び続けていました。 しかし、そこへハッカー仲間が次々と新しいアイディアを考え、改良を加えていきます。
ピーター・サムソンはランダムに描かれる星を見て気分を害したのか、 スティーブ・ラッセルを呼び止め「これはリコールだ」と言ったあと、 AENA(American Ephemeris and Nautical Almanac)のデータを用いて現実にある恒星を画面に表示するように改良しました。 ダン・エドワーズは「Heavy Star」(ヘビースター)と呼ばれる重力惑星を画面の中央に配置することを導入すること提案しました。 この重力惑星を実装する際には2つの考えが盛り込まれました。 ひとつは「重力に従って画面上のものがすべて影響を受けること」、 そしてもうひとつは「画面上に弾が埋め尽くさないように重力惑星に当たった弾は破壊すること」というものです。 これならば、スキルの高いプレイヤーが有利に戦えるということです。 重力惑星を実装した後、惑星に引き込まれて落ちていく宇宙船の軌道がCBS(CBS Broadcasting)のオープニングに似ていることから、 「CBS Opening」というあだ名で呼ばれるようになりました。 ハイパースペースと呼ばれるものがマーチン・グラーツにより組み込みまれましたが最終的には取り除かれてしまいました。 しかし、やはり後から組み込まれた「ミネソタ・ハイパースペース」だけでなく、 Space War!系のゲームで同様のアイディアが出現したところを見るとゲームを盛り上げるために必要な発明だったのかもしれません。
プログラムに改良を加えていく一方でSpace War!は重要なデバイスの発明をもたらすことになりました。 アラン・コトックとロバート・サンダースは、 小さな木の箱とワイヤ、ベークライトの板、それからスイッチボードを使って、 「コントロールボックス」と呼ばれるものを作り上げたのでした。 これは後にジョイスティックと呼ばれる機器の祖先です。 横向きのスイッチは宇宙船を回転制御し、 ボタンはフォトントーピドを撃つためのものです。 縦向きのスイッチは2つの機能を操作するためにつけられたもので、 奥に倒すとハイパースペースの制御、 手前に倒すとロケットの推進力の制御を行うことができるようになっていました。
このような改良や発明の他、宇宙船が壊れるときに破片となって爆発する
「クロックエクスプロージョン」というアイディアが追加され、
ひと通りのエッセンスが盛り込まれたSpace War!は1962年4月に完成しました。
翌月に同大学がサイエンスオープンハウスでお披露目されました。
このバージョンのSpace War!が「オリジナルバージョン」と呼ばれるようになっていきます。
また、同5月にニューベッドフォードで初めて開催されたユーザ交流会「DECUS(Digital Equipment Computer User's Society)」でも発表され、
その資料の1ページ目には大げさなタイトル「SPACEWAR! Real-Time Capability of the PDP-1.」がつけられたのでした。
Space War!を完成させたハッカー達は1962年の夏が終わりを告げる頃にはそれぞれの道へ歩んで行きました。 アラン・コトックとマーチン・グラーツはSpace War!のデジタル化を進め、 スティーブ・ラッセルはスタンフォード大学のジョン・マッカーシーを支援、 ピーター・サムソンとロバート・サンダースはケンブリッジに留まり、 ダン・エドワーズは数年AIグループで過ごした後、プロジェクトMACへ移って行きました。
Space War!を作り上げたハッカー達はこのSpace War!で特許を取ることをせず、 PDS(Public Domain Software)で配布、今でいうオープンソースとしたため、 全国の大学・研究室にプログラムコードが書かれた紙テープが広まっていき、 Space War!は各地で独自の進化を遂げながら生き延びていきました。 また、DECUSで発表された経緯もあり、PDPを発売しているDEC社からも購入した顧客に対して、 無料で穿孔テープが配布されたことも拍車を掛けました。
主だった改造は以下のようなものだったと言います。
- 燃料やミサイルの数が可変
- 連射可能
- ミサイルの射程が可変
- 自機が見えなくなる(ミネソタ・ハイパースペース)
- 太陽がブラックホールになって見えなくなる
- 太陽にぶつかっても死なない
- 機雷をばらまく
- 部分ダメージ制
- 3機以上で対戦できる
- 2つのモニターを使用し、違いに相手が見えない
- 自機の爆発と共に電気ショック!
このようにSpace War!は随時進化していくとともに新しいコンピュータが出現すると次々と移植されていきました。
ゲームをセーブするパッチプログラムや、自動でリスタートされるようになるパッチプログラムなどもリリースされて行ったのもこの頃です。
そのようなハッカー達の中に、Space War!をより遊びやすくしようとして新しいOSの開発に着手する人間も出て来てしまうようになってしまったのです。
ケネス・トンプソンが最初にSpace War!を移植したのはベル研究所の研究員だった頃の話にまで遡ります。 1964年、マサチューセッツ工科大学とゼネラル・エレクトリック社、およびベル研究所により、 新しいオペレーティングシステムであるMultics(Multiplexed Information and Computing System)の開発プロジェクトがスタートされました。 MulticsはCPUやメモリ、ディスク装置などを追加するだけで拡張可能な構造を目指したマシンを利用できるように作成されたOSで、 そのポータビリティの高さやOSに盛り込まれた思想など、後世のコンピュータに多大な影響を与えるほどの基礎を築きました。
Multicsプロジェクトの一員だったケネス・トンプソンはその開発に関わりながら、 その新しいOS用に提供されたゼネラル・エレクトリック社の「GE-645」というメインフレームコンピュータを利用して、 当時とても人気があったゲームであるSpace War!を移植しようと、 「Space Travel」(1964, Kennes L.Thompson)という名前でゲームを作成していました。
しかし、このSpace TravelをGE-645で動作させるにはコンピュータのコストがとても高く、 またコンピュータのパフォーマンスはそれほど良くありませんでした。(*1) Multicsはその後、発売されることになりますが、 評判はあまり良くなく、ベル研究所は1969年にMulticsプロジェクトに見切りをつけて引き上げてしまいました。 ベル研究所に戻ったケネス・トンプソンは、同僚のデニス・リッチーに力を借りて、 同研究所で利用されなくなったいたPDP-7を使って、アセンブリ言語でSpace Travelの開発を続けて完成させるに至るのでした。
このSpace Travelの移植経験、その前に行っていたMulticsでの開発経験を生かして、 ケネス・トンプソンは新しいOSを開発するプロジェクトを立ち上げました。 そのプロジェクトはMulticsでの失敗を鑑みて、もっとシンプルなモジュール群で構成することを目標に Unics (Uniplexed Information and Computing System)と呼ばれました。 これが後にUNIXプロジェクトとなり、今日のUNIXが産声を上げることになります。 UNIXは現代において非常に利用されているOSのひとつで、 その安定性、拡張性など、他に類を見ないほどのハイポテンシャルなOSに育っているのはご存じの通りです。 もちろん、このUNIXにもSpace Tarvelは移植されました。 UNIXで一番最初に稼働するアプリケーションプログラムとして。
少し話は前後しますが、実は1960年より少し前の1956年に米空軍で利用されていたシステム 「SAGE」(Semi-Automatic Ground Environment System: 半自動式防空管制組織)の開発がマサチューセッツ工科大学で進められていました。 このSAGEシステムは「レーダーへ敵の位置とスピードをグラフィカルに表示」するもので、 司令塔でこの状況を見ながら戦略を練るというものでした。
Space War!はPDP-1で開発されたものだということは既に述べた通りですが、 実はこのPDP-1は少なからずSAGEシステムとの繋がりがあります。 SAGEシステムには「Whirlwind」というコンピュータが利用されているのですが、 これがPDP-1のご先祖様に当たります。(*1) Whirlwindは第二次世界大戦中に米海軍からマサチューセッツ工科大学へ 「爆撃機のクルーを訓練するためにフライトシミュレータを作れないか?」 という打診があったことからスタートしたプロジェクト「Project-Whirlwind」で開発されたものでした。 米海軍が想定していたのは「パイロットの操作に基づいた結果を計器盤へリアルタイムに表示するシミュレータ」というもので、 空気力学的モデルに基づいた実物に限りなく近いものという条件が課されました。 同プロジェクトでは最初に専用のアナログコンピュータを作成したのですが、 シミュレートの精度が低く、とても使い物にならなかったと言います。 そこでデジタルコンピュータを作成することで精度の補間を行うことにし、 コンピュータの性能を上げるためにビット並列処理、リアルタイム処理が可能になるように設計したのでした。
ところがWhirlwindの完成には3年掛かり、 プロジェクトの維持費で毎年100万ドルもを浪費するだけということで米海軍の興味を失わせてしまい、 プロジェクトの存亡が危うくなってしまいました。 しかし丁度その頃にソ連が最初の原子爆弾を完成させたという情報が流れたことにより、 米空軍がその対処を行うために当時世界最速だったコンピュータであるWhirlwindに白羽の矢を立てました。 このためWhirlWindは生き残ることができるようになり、 SAGEシステムは無事完成に漕ぎ着けることができたというわけです。
SAGEシステムは結果から言うと大成功を収めました。 その成功を受け、システムの根幹を担っていたコンピュータ「Whirlwind」をIBMで量産化することになりました。 同時に別ラインでWhirlWindをトランジスタ化する作業が行われていたのでした。 その作業を行っていたのがケン・オルセンで、 彼は「TX-0」というコンピュータを完成させます。 TX-0の開発に成功したケン・オルセンは後継機であるTX-1、TX-2と開発を進めて行きましたが、 途中でプロジェクトを離脱、独立してDEC社を興します。 PDP-1はそこで開発された最初のコンピュータなのです。 そしてこのPDP-1はTX-0とTX-2のコンセプトを引き継いで、より小さなマシンに仕立てたコンピュータであり、 WhirlWindの流れを汲むコンピュータだと言えます。
そのSAGEシステムで利用されていたWhirlwindとSpace War!が開発されたPDP-1、 Space War!に携わるハッカー達がチェスなどのプログラムを組んでいたTX-0、 これらはどこか不思議な巡り合わせの元にあるような気がします。 なぜなら前述したBouncing Ballもまた、このWhirlWindで作成されてTennis fot twoへ影響を与え、 SAGEのリアルタイムコンピュータの対話性がSpace War!の開発へ影響を与えているからです。
PDP-1で人気を博したゲームSpace War!は登場してから長い間、学生達を虜にしてきました。 「これだけ面白いゲームならSpace War!をスタンドアロンにしたら儲かるだろう」と考える人間が現れるのも必然です。 スタンフォード大学のビル・ピッツとヒュー・タックは同大学のAI研究所にあったPDP-10版のSpace War!をベースにして PDP-11でSpace War!をプログラムしなおして1971年6月にコイン投入型のスタンドアロンマシンを完成させました。 専用筐体はウォールナット材でできたベニアを使って作りましたが、 マシンやディスプレイにかかる費用が非常に高かったため、総額費用はなんと$20,000ドルにも上りました。 元々はSpace War!であったゲーム名が変更されたのには理由があり、 当時のキャンパス内では「戦争」というコンセプトは良い考えだと思われていなかったためでした。 そこで2人はゲームの名前を「Galaxy Game」(1971/6, Bill Pitts/Hugh Tuck)と変更することにしたのです。 セカンドバージョンになると4 〜 8画面で同時に遊べるようになり、9月に学内のカフェに設置されました。 ゲーム料金は1回10セント、3回25セントと設定されいましたが人気を博しました。
同年、やはり同じようなことを考えた人間がいました。 その人物がノラン・ブッシュネル、ビデオゲームの父(*1)と呼ばれるATARIの創設者です。 どうやら「ゲームで楽しませたい」というのはゲームを作成する人の中に流れるというのは共通しているようですね。 ユタ大学に在籍していた彼もSpace War!をいたく気に入っており、 常々「この楽しいゲームをたくさんの人に遊ばせるのはどうだろう」と思っていたそうです。 当時アルバイトをしていた遊園地にヒントを得てひとつのアトラクションにできないかと考案しましたが、 コストを試算してみると回収不可能だと思い、そのときには断念しました。 しかし、いつか作ろうという気持ちだけはもっていました。 ブッシュネルがアンペックス社に入社してしばらくして、 コンピュータの値段が8,000ドル程度にまで下がっていることを知ったブッシュネルは、 既製のICをうまく使えばそれ以下の値段でゲーム機が作れると判断し、 学友のテッド・ダイニーとシジギ(Syzygy)という会社を興し、Computer Spaceの製造に取り掛かります。 この完成したComputer Spaceをナッチング・アソシエーツ社へ売り込みを行い、なんとか発売へ漕ぎつけます。 発売されたキャビネットにはシリアルナンバーが振られており、その数は1,500台でした。
1970年代初頭の遊びをザッと見てみると遊園地にあるのは現代のゲームセンターでも時折見かけるエレメカだったようです。 ノラン・ブッシュネルはこのエレメカを参考にお金を入れて「ちょっと遊ぶ」ためのアトラクションとしてビデオゲームを作成しました。 この時代はタイトーなども多くのエレメカを発売していて、 Computer Spaceが発売される前年にはガンシューティングゲーム「スカイファイター」(1970, タイトー)でヒットを飛ばし、 翌1971年になってすぐに続編である「スカイファイター2」(1971, タイトー)を発売したりしていました。 面白いことにこのスカイファイターを開発したのが、のちにスペースインベーダーを開発してヒットさせることになる若き日の西角友宏です。 ビックリするのが彼がこのスカイファイターを開発したのは入社1年目というのですから、 スペースインベーダーをヒットさせるための才能は既に秘めていたと思えてなりません。 もうひとつ、1970年代初頭に流行っていた遊びが「ピンボール」です。 こちらも「フリッパー」の愛称で親しまれ、日本のゲームセンターによく置いてありました。 あとで名前がたくさん出てきますが、バリーやミッドウェイと言ったメーカーは元々ピンボールを発売している会社でもありました。 これらの会社もゲーム市場が膨らんで、市民に受け入れられるにつれて、 アーケードゲームを作成するようになり、次々に市場へ投入するようになっていくのでした。
それぞれ別の場所で、同じ時期、そして同じゲームを源流に持つコイン投入型のゲームが完成したことは、 正にシンクロシニティと言えるでしょう。大変興味深い点だと思います。 残念ながらGalaxy Gameはしっかりした筐体が作られたものではありましたが、 あくまで個人が作ったもので商業ベースに乗せていないという理由でアーケードゲームという分類には含まれていません。 現代であればインディーズゲームとして脚光を浴びていたかもしれませんね。
かくして世界初のアーケードゲームComputer Spaceが市場に投入されることになったのですが、
残念ながら興業結果は燦々たるものでした。
この「楽しいゲーム」の人気が出なかった理由はこう考えられます。
きっとゲームという新しいカルチャーに初めて触れるお客からすれば、
「ボタン4つによる操作」「ゲーム自体の難易度」が最初の敷居としてはあまりにも高すぎたのです。
ノラン・ブッシュネルや当時のハッカー達は長年コンピュータに触れゲームに触れながら暮していたでしょう。
PDPシリーズ上で動くゲームを作ったり、Space War!改造して遊んだりして徐々に腕前を上げていったと考えると、
この時点で既にゲームの腕前はお客と大きな乖離があったことが推察できます。
これは現在のゲーム市場で言えば、ゲーマーと呼ばれる人と一見でゲームを遊ぶ人の関係にそのまま置き換えることができると思います。
つまりComputer Spaceの感想を一言で言ってしまえば「マニアックすぎた」ということです。
後にブッシュネル自身が要因分析を行った際、やはり「操作が難しかったのではないか」と振り返っています。
かくしてComputer Spaceは酒場の隅でくすぶっていくことになりました。
しかし、その一方で世界初のコンシューマ機「Odyssey」(1972, Magnavox and Sanders Associates)が発売されたことで、
アーケードゲームはひとつの転機を迎えることになるのです。
Odysseyはサンダース・アソシエーツ社に勤務していたラルフ・ベアが考案し、作成したものでした。 彼は「TVを使って何か新しいことができないか」と常々考えており、 1966年8月のある日、バス停で仲の良い同僚を待ちながら 「TVでゲームをやるというのはどうだろうか?」ということを思いついたそうです。 メモ魔だったラルフ・ベアはすぐさまTVゲーム機の構造などをメモにまとめ、試作機の設計に着手しました。 1969年頃にはその試作機である「Brown Box」が完成(*1)、 ビデオゲームに関する特許の申請を行いました。 サンダース・アソシエーツ社より申請されたこれらの特許内容は、 「記号や文字などのキャラクタの情報をテレビ受像機を経由させてモニタ上へ映す」というもので、 ビデオゲームをテレビモニタで遊ぶための基本的な部分をほとんど占めていました。 そのため、マグナボックス社がOdysseyを製造・販売するに際して、 サンダース・アソシエーツ社に特許料を支払う必要がありましたが、 ビデオゲームの製造・使用・販売というあらゆる権利を独占的に保有したため、 その他のゲームメーカがビデオゲームを製造・販売するためにはマグナボックス社へ許諾(*2)を得なくてはならなくなりました。 そのため、ビデオゲームを作成するに際し、 マグナボックス社へ許諾を得ていないゲームメーカ達は、 ビデオゲームに関する特許の無断使用を理由に訴訟を起こされる(*3)ことになりました。
Odysseyは10種類程度のゲームが遊べるタイプのゲーム機で、 カートリッジを差し替えて色々なゲームを遊ぶことができます。 ただし、現代に見るようなROMカートリッジ式のゲーム機ではなく、 本体内にモジュール化して構成してある回路ブロックを、 異なる配線のプリント基板が入ったカートリッジを差すことでゲームを切り替えるというものでした。 この中で「Pong Tennis」(1972, Magnavox)というゲームを遊んだノラン・ブッシュネルは大変な刺激を受け、 アペックス社から引き抜いてきた同僚のアラン・アルコーンにアーケードゲーム機として作成するように指示します。 しかし、アラン・アルコーンはゲームの開発経験がないため、 ノラン・ブッシュネルはまず小さなプログラムを作成させようという軽い気持ちだったといいます。 ほどなくしてアラン・アルコーンがテスト機を完成させたので、 ノラン・ブッシュネルはそのテスト機をカリフォルニア州サニーベールにあったアンディ・カップ酒場に設置してきました。 ノラン・ブッシュネルはそれほどのインカムは期待していなかったようですが、 フタを開けてみると意に反してコインシューターが溢れるほどの人気となりました。 人気が出た理由はアラン・アルコーンがボールをパドルで受けた際、 ボールがパドルの中心から放射状に反射するような細工をするなどの独自のアイディアを盛り込んでいたためでした。 また、Computer Spaceと違い、ゲームが単純で、遊びやすいということも人気の秘訣だったのでしょう。 こうして爆発的な人気を得た「Pong」(1972/9, ATARI)の成功がアーケードゲームの市場を切り開いて行くことになったのです。
*2 ただし、アメリカの独占禁止法に制約を受けるため、 第三者へも製造権などを与えること(再実施権)を義務づけられました。
*3 アタリ社だけは例外で、別の観点からのビデオゲーム特許を取得していたこともあり、 マグナボックス社から訴訟を起こされた際にクロスライセンスを結び、 お互いの権利を尊重しようではないかという形で和解しました。
コンシューマ機に限らず、ビデオゲームで遊ぶときに切っても切れないのがテレビモニタです。 ニュースなど見るためのテレビとパソコンで使うCRTは機能的に同じものですが、 CRTがブラウン管の発光体として使われるようになったのは同じ頃の話で、 1946年に米国のRCA社がカソード面を持ったテレビの実験に成功しています。
ブラウン管の受像実験が成功したのは1927年12月25日で、
浜松高等工業高校(現、静岡大学工学部)の教諭であった高柳 健次郎が「イ」の字を撮像させたのが最初です(画像は国立科学博物館にて撮影)。
カメラ側がまだ機械式であったため、解像度は非常に粗く、走査線は40本というものでしたが、
初期のテレビジョンシステムの開発は静止画を電気信号に変換して撮像を行うことに主眼が置かれていたため、
この実験の成功は快挙となりました。
ブラウン管の中に動画が表示できるようになったのはもうちょっと後の1935年で、
電子式のカメラが1927年にフィロ・フランスワース(Philo T. Farnsworth)によって開発されてからです。
1935年には3月にはドイツが世界で始めてTV放送を開始(走査線180本)し、
同11月にはフランスもエッフェル塔からTV電波を発信し始めました。
しかし、1965年くらいまでは画像の鮮度が悪く、暗い室内でなければ画像が見えないくらいだったと言います。
それは明るい部屋でプロジェクターに映されたものを見たときの様子に似ているでしょう。
それまでのテレビモニタはいわゆるモノクロテレビでしたが、 1950年にはカラーテレビが完成して翌年にはカラー放送が始まっていまるようになりました。 ところが朝鮮戦争(1950-1953)のために経済が困窮し、電波放送が中止になったり、 1967年にはゼネラル・エレクトリック社が開発したカラーテレビからX線が放射されていることが判明するなどして、 なかなか普及に漕ぎ着けることができなかった背景があるようで、 初期のテレビゲームでは安価で普及しているモノクロのテレビモニタが使われるようになったようです。
このように1900年代初期に盛んに実験・開発がされているテレビモニタですが、 驚くことにブラウン管の理論自体は1897年にドイツのブラウンが発明を完成しておりノーベル賞を受けています。 ブラウンは所用で渡米したときに運悪く第一次世界大戦(1914 〜 1918)が始まってしまい、 帰国ができずに最終年の1918年に逝去し、遂に自分の目で絵の映るブラウン管を見ることができなかったようです。
さて、操作が難しすぎて市場に受け入れられなかったComputer Spaceですが、 もちろんノラン・ブッシュネルはただそれを手をこまねいて見ているようなことはしませんでした。 彼はコンピュータスペースについているコントロールパネルを何度か改良し市場に投入しているのです。
Computer Spaceの元となるSpace War!では2つの(レバーみたいな)スイッチとボタン1つという専用のコントローラが作成されていることが知られています。 スイッチはそれぞれ上下方向に倒せるものと左右方向の倒せるものがついていて、 左右方向のスイッチを使って機体を旋回、上下方向のスイッチを使って加速をさせることができるようになっています。
しかし、Computer Spaceではボタン4つのものが最初に投入されました。
ボタン4つを駆使しなければすぐにやられてしまうという操作方法は、
現代から見ればかなり設計が悪く、操作性が直感的ではなかったと分析できますが、
なぜノラン・ブッシュネルがこの操作方法をアーケードゲームに採用しなかったのでしょうか?
それはきっとこう考えられます。 Computer Spaceは元々酒場でロケーションテストが行われていましたから、理性のタガが外れて力加減ができない状態の人も遊んだことでしょう。 ですからゲームでエキサイトしてしまった客が大きな力を加えてスイッチを壊してしまう可能性が高いからではないでしょうか。 その証拠、というわけではないですが、新しいバージョンのコンピュータスペースについているスイッチはマウスくらいの大きさの2方向レバーがついていて、 ガッチリ軸に固定されたものが利用されています。これならば壊れませんし、機体の旋回を直感的に操作できるので悪くないでしょうね。(右の図を参照)
しかし、もうひとつのComputer Spaceではこのコントロールパネルをそのまま利用しませんでした。 このみっつ目のComputer Spaceは二人用でも遊ぶことができるようになったのですが、 以前のままのコントロールパネルを使っていたのではきっと肘をぶつけ合うようなことになったでしょう。 ですからこのComputer Spaceにはジョイスティックの先端にトリガをつけた操縦桿型のレバーがつくことになったと考えられます。
こうして現在コンピュータスペースには3種類あることが判っています。
今見てきたように「敵が攻撃してくる」というスタイルのシューティングゲームが登場したのは、 世界初のアーケードゲーム「Computer Space」からだったことが判りました。 しかしComputer Spaceの失敗から解るように反射神経を酷使するゲームは一般的に受け入れにくいものだったようです。 Computer Spaceは当初はひとりで遊べるようにできていましたが、 Pongが世界的に成功したことで「ゲームはひとりで遊ぶものではない」という方向へと進むことになります。 ATARIはCocktail(カクテル)筐体という二人が向かい合わせに座って遊べるタイプの筐体を多く発売しているのですが、 このことが当時のゲームが一人で遊ぶものではなく、二人で、あるいは仲間と何人かで遊ぶことが前提であることを示唆していると言えるのかもしれません。
また、ゲームは多人数で遊ぶものであることを裏付けるのが1976年に発売されたCops&Robbersだと思います。
このCops&Robbersには画面の左右端に2車線のラインがあり、コップスチーム2台、ロバーズチームで2台に分かれてお互いに撃ち合うゲームです。
よく刑事モノの映画でカーチェイスしながら銃撃戦を行うシーンがありますが、それをゲーム化したようなものだと言えば解りやすいでしょうか。
このゲームはひとりで遊ぶだけでなく、最大4人まで参加できる対戦が目玉となっているのです。
黎明期のゲームのほとんどがそうであったように、このゲームも時間切れになるまでプレイヤーは何度でも参加できます。
ですから、もしやられてしまっても「よし、次はこうしてやるからな!!」と作戦を立て、ひたすら撃ち合ってワイワイと楽しめるゲームだったでしょう。
また同年に「TANK 8」(1976, Kee Games)というゲームも出ているのですが、
このゲームは最大8人までが参戦して遊べるというゲームです。
このTANKシリーズはとても人気があったようで、
対戦型戦車ゲームだけを遊ぶことができるコンシューマ機「Telstar COMBAT」(1977, Coleco)なども発売されています。
この「Telstar COMBAT」の凄いところはアーケードと同じ操縦桿型コントローラーがついているという本格的なものでした。
日本では後年になってから対戦格闘ブームが起りましたが、 アメリカでは黎明期から対戦ゲームで盛り上がっていたことになります。 多人数ゲームと対戦ゲームの大きな違いは「仲間内で競うもの」であるか、 「見ず知らずの人と競うのか」という点になるでしょう。 実は黎明期のゲームを洗い出してみると通信ネットワークを利用した、 「見ず知らずの人と競う」形式の通信対戦ゲームが存在することを知ることができます。
世界初のFPS(First Person Shooting)である「Spasim」(1974/3)はリリースされたときはとてもシンプルな構造で、 それまでに作成されていたテキスト入力形式のアドベンチャーゲーム「Star Trek」(1971, Mike Mayfield)をベースにして作成されました。 ただこのSpasimがStar Trekと違うのは、単なるテキスト入力形式のゲームではなく、 スペースシップ内をワイヤーフレームでリアルタイム描画するということと、 ネットーワーク回線を使った通信対戦が可能である点でした。 1970年代の早期になぜこれだけ高度な処理を使ったゲームが作成できたのか、 それはこのゲームは「PLATO」(かの有名な哲学者「プラトン」にちなんでそう呼ばれるようになる。)という大型のコンピュータシステムで作成されたからです。
1960年代のアメリカでは大学教育を受けられる人はごく限られた一部の人だけでしたが、
将来的には多くの人が高等教育を受けるようになるということは明白でした。
1957年10月4日にソ連が人類初の人工衛星「スプートニック1号」
(写真は宇宙情報センター公式サイトより引用)の打ち上げに成功しましたが、
これを受けてアメリカは自国の教育制度が大幅に遅れていることを改めて認識せざるを得ませんでした。
人類が宇宙開発を本格的に始めたのは1950年代からですが、
この年代はアメリカを中心にした資本主義陣営とソ連を中心にした社会主義陣営との間で対立が深まっており、
宇宙開発が両国の威信と覇権を賭けたものでもあったわけです。
認識を改めたアメリカは、科学や工学へ多額の資金を投入してコンピュータを利用した教育を行えるようにし、
この遅れを巻き返そうと考えました。スプートニック1号の打ち上げが成功した翌年の1958年、
米空軍の科学研究事務所はペンシルバニア大学でこの議題を中心にした会議を開いたと言います。
その会議ではいくつかのグループ(そのほとんどはIBMのグループ)が教育に関した研究結果を発表していきました。
イリノイ大学の物理学者であるチャーマーズ・シャーウィンが考案した「コンピュータ化された学習システム」は、 同大学の学部長より紹介された物理学者ダニエル・アルパートを筆頭に、教育者・数学者・心理学者などを含めて検討されることになりました。 しかし最初のミーティングから何週間が経っても彼らはチャーマーズ・シャーウィンが示したデザインに沿うようなコンピュータを設計することができずにいました。 このままでは残念な結果をペンシルバニア大学の会議で発表するしかありませんでした。 しかしこのとき、実験室助手を務めていたドナルド・ビッツァーがデモンストレーションシステムを構築することができることを示します。 これを聞いたダニエル・アルパートは早速、彼にミーティングを開くように言い渡したと言います。 ドナルド・ビッツァーが示したシステムがどんなものだったかというと、 当時の教育方針を拒絶するような「ドリル式」のシステムでした。 ただ、ドリルを解く学生が既に理解しているレッスンは受講しないでも良いようになっていたと言います。
このようなアプリケーションシステムを開発するため、 最初のPLATO(Programmed Logic for Automatic Teaching Operations)システムである「PLATO I」(1960-1961)は完成しました。 PLATO Iは「ILLIAC I(*1)」(1952, イリノイ大学)という教育研究機関が自ら設計・開発を行い、 そして所有をした世界最初のコンピュータで開発されたものです。 Spasimが作成されたのはもう少し後のPLATOシステム、「PLATO IV」(1972-1975)を利用したコンピュータ端末上で作成されたものです。 PLATO IVはPLATOの父であるドナルド・ビッツァーが発明した新新鋭のプレズマ・ディスプレイ端末を利用し、 PLATOに更なる革命をもたらしたと言われている至高のマシンです。 利用されたプラズマ・ディスプレイはメモリとビットマップ・グラフィックスの両方を1つのディスプレイに組み入れて設計され、 512×512ドットという高解像度の画面を持ち、秒間に60本もの線あるいは180個のキャラクタ表示を描画できるほど描画性能を引き上げることに成功しました。 また、このディスプレイには16×16のグリッドに区切られたタッチパネルが供えられ、 PLATOを利用する学生はこのタッチパネルを操作して問題の選択したり回答を行ないながらドリルを進めていくことができたそうです。
PLATOシステムでは教育向けのプログラムだけでなく、いくつかのゲームが作成されました。 PLATOシステムで初めてゲームが作成されたのは1960年代末で、 そのゲームはマサチューセッツ工科大学で作成された「Space War!」の移植版(196?, Rick Blomme)でした。 この移植版はSpace War!の最もシンプルなバージョン、つまり「オリジナル版」と呼ばれるものを忠実に移植したものだったようです。 これを契機に「Avatar」と呼ばれるダンジョンズ・アンド・ドラゴンズを題材にしたもの、 「Empire」(1973/4, Silas Warner/John Daleske)と言われるStar Trekをマルチプレイヤーに対応させたもの、 「Airace」「Airfight」と呼ばれるマルチプレイヤーで遊べるフライトシミュレータ、 タイピングゲームの「to Wordwar」、戦車シミュレータの「Panther」(1977)、 それからトランプの「ブリッジ」をコンピュータ上で遊べるようにしたものなど、数多くのものが作成されていくことになります。
これらPLATOで作成されたゲームは当時のゲーム業界に多大な影響を与えたとされており、 中でもフライトシミュレータの「Airfight」や戦車シミュレータの「Panther」はその後のシミュレートゲームの先駆けでもあったと言います。 例えばATARIは「Panther」から影響を受けて発展したシューティングゲーム「Battle Zone」(1981/1, Atari)を作成したとの記述を見かけることができます。
Spasimはそのような完成度の高まったAirfightまでのゲームで培かわれた技術を元に作成されました。 このSpasimは黎明期では稀に見ない多人数参加型のマルチプレイヤーゲームで、 ひとつのシステムから最大8人の参加が可能となっており、 合計4つのシステムを接続して最大32人まで参加ができるという大掛かりなものでした。 ひとつのシステムを「惑星システム」と呼び惑星に見立て、4つの惑星間戦争をモチーフにゲームが進行していきます。 プレイヤーはワイヤフレームで描かれた宇宙船に乗り込み、宇宙を飛行しながら光線銃とフォトン・トーピドを使って相手を撃破していきます。 詳細な記載はありませんが、どうやらプレイヤーが途中参加が可能だったようで、 対戦格闘ゲームで行われる「次々と参加してくる、まったく見ず知らずの他人と戦う」というものが既に30年以上も昔に普通に行われていたことは感嘆に値します。
Spasimはその後も改良されていきましたが、最初のリリースから4ヵ月後の1974年7月にリリースされたセカンドバージョン(*1)では、 宇宙ステーションの登場と燃料などのリソース管理を行うという戦略性を追求したになっていきます。 この辺りの進化はSpace War!の改造バージョンなどから多大な影響を受けていたことは想像に難くありません。 現在ではEmpire以外のゲームについてのスクリーンショットなどはほとんど残っておらず、 実際にどのようなゲームだったかはPLATOシステムを良く知る人の記憶の中にしか存在しないようです。 いずれはこれらの情報が陽の目を見ることがあるでしょうから、私たちには楽しみがひとつ増えたということになりますね。
同じ頃、NASAのエイムス研究センターでひとつのFPSが生まれました。 同研究センターにはImlac PDS-1というマシンが置かれており、 学生達はこぞってプログラムを組んで研究を行う日々を送っていました。 作成するプログラムにはゲームなども含まれており、 1972年に発売されてから大ヒットを飛ばしていたPongのようなものも存在しました。
1972年、エイムス研究センターの学生だったスティーブ・コレーとホワード・パルマーは、 ワイヤフレーム描画使って迷路の中をリアルに歩けるプログラムを作成しようと試みました。 しかし、コンピュータの性能はそれほど高くなく細かい角度での描画は断念せねばなりませんでした。 ある日、スティーブ・コレーとホワード・パルマーはブレインストーミングのようにアイディアを出し合って解決策を探すことにしました。 アイディアを出し合う中でホワード・パルマーが思いついた「人の移動が90度単位であればこのコンピュータでも迷路の描画処理が間に合うのではないか」という結論に対し、 スティーブ・コレーが「それならできる」と半ば興奮してプログラムを組み上げて「Maze」(1972, Steve Colley/Howard Palmer)を完成させました。 Mazeは16×16マスという非常に小さな迷路を歩き回れるだけのものでしたが、 スティーブ・コレーが実装したワイヤフレーム処理は非常に完成度が高く、陰線処理が施されたフロア内をスムーズに移動させることができたのです。 実は、スティーブ・コレーがMazeのプログラムを着手する前に、滑らかに回転するキューブに陰線処理が施すというプログラムを実験的に作成していたため、 他の仲間はこのプログラムを見てリアルに迷路の中を歩けるプログラムを夢見ていたというわけです。 この迷路の表示アルゴリズムおよび操作方法は後の3D RPGの礎にもなっていくことも知らずに。
Mazeの完成からしばらくして同じグループにいたグレッグ・トンプソンが「迷路の中に人を配置してみよう」とアイディアを出してきました。 もう一台のマシンを調達し、シリアルポートで接続して通信処理を行うように改良して2人同時に迷路内を動かすことができるようになりました。1973年のことです。 相手のキャラクタは「アバター」と呼ばれ、見た目はビホルダーのような「目玉のオバケ」で描画されました。 この通信ができるようになったMazeを見たスティーブ・コレーは 「ただ単に人が2人が歩けるだけではなく対戦できたら面白いだろう」という撃ち合うアイディアを思いつき、 すぐさまプログラムを実装しました。 こうしてもうひとつの対戦型FPS「Maze War」(1974, Steve Colley/Greg Thompson/Howard Palmer)は生まれました。(*1)
Maze Warが開発していたコンピュータがネットワークへ接続されるようになると、 グレッグ・トンプソンは即座にネットワーク対応版の作成に取り掛かりました。 1974年に完成したネットワーク対応版は、C/Sシステムで構成され、 IBM1800をサーバとして利用して、複数台のクライアントマシンを接続して遊ぶことができるものでした。 同時に遊べる人数も大幅に増え、8人以上が同時に参加できました。 また、グレッグ・トンプソンはネットワークへの対応だけではなく、 各々がオリジナル形状の迷路で遊ぶことができるよう「レベルエディタ」も同時に作成しました。 このレベルエディタがついたネットワーク対応版は、 グレッグ・トンプソンがMITへ持って行ったことに端を発し、 どんどんと配布され、多くの改良がなされていきました。
ある改良では別のターミナルを接続して2Dマップの表示がされるようになったり、 ホットキーを押下すると2Dマップが表示されるようにされました。 そのようないくつかの改良が重ねられていき、最終的には迷路内をうろつくロボットを退治するゲームとして完成いくことになります。 1977年、グレッグ・トンプソンがMaze WarをTTLベースで作成、 テクトロニクス製のオシロスコープを使ってベクタスキャン表示を行わせるゲーム基板として完成させました。 グレッグ・トンプソンが作成したこのバージョンのゲームは4階層の迷路を昇り降りすることができるというスリリングなものでした。
Spasimが先か、Maze Warが先か。 いつかどちらのゲームが先に生まれて来たのか、明らかになる日も来るでしょう。 しかし、同時多発的に開発されたふたつのFPSは、 どちらもシューティングゲームとはまったく関係のないゲームから幾多の改良を経て生まれてきた貴重なゲームであることに変わりはありません。
元々、ビデオゲームは多人数で遊ぶことが多かったと言えるでしょう。 Computer SpaceやPongなどのロケーションテストが行われていた場所が酒場であったこと、 PLATOのように一部の施設にしかなかったものまで含めて考えてみると、 人が多く集まる場所にゲームがあったことが、「多人数で遊ぶもの」である必要性を持たせることになった、と考えることができると思います。 更に多くのゲームはエレメカなどと同じく遊園地などに置かれていたということも考えられます。 そうなると親子で遊んだりした(*1)かもしれません。 ですからゲームに一人用がついていたのは待ち合わせまでの暇つぶし程度だったとも考えられます。
では、ゲームがひとり遊びに転向していったのはいつ頃からだったのでしょうか。 1970年代でひとりで遊べるゲーム、かつ人気を博したゲームを探してみるとPongを進化させた「Break Out」(1976, ATARI)を見つけることができます。 Break Outはプレイヤーがラケットを操作してボールをレシーブし、画面上に敷き詰められたブロックをすべて消すというアクションゲームです。 画面上のブロックをすべて消せば面クリアとなり、また新たに画面上に敷き詰められ、次の面を遊ぶことができます。 Break Outで面白いのは、特定の条件でボールが加速したり、ラケットが短くなったりする点で、 うまくなるにはある程度のテクニックを身につけていく必要がある点でしょう。 この「面クリア」という概念の誕生がゲームをひとり遊びに転向させた概念ではないでしょうか。 ですからまだ憶測の域を出ませんが、このBreak OutのヒットがComputer Space以来再び、 ゲームをひとりで遊ぶものへと転換させたゲーム(*2)だと思います。
ブロック崩しは日本へも輸入され人気を博し、多くのコピーゲームが作成されました。 中でもタイトーはそれまで大型の筐体に入っていたビデオゲームを小型化し、「テーブル筐体」というものを発明しました。 このテーブル筐体は日本のような狭い立地に建つ店舗などにマッチしたのか、 喫茶店を中心に普及していくことになります。 このテーブル筐体の発明がのちにトンでもない現象の一手を担うことになるとは当のタイトーも思っていなかったでしょう。
*2 これはあくまで一般の方についてで、ハッカー達はゲームをひとりで遊ぶことも多かったでしょう。 例えば「トルネコの冒険」(1993, チュンソフト)の元となるゲーム「Rogue」は前年の1975年に開発されてUNIXユーザの間で普及しています。
Break Outの発売された翌年、カリフォルニア州サンディエゴから異色のシューティングゲームが登場することになります。 そのゲームの開発メーカー「Gremlin Industries」は1970年に魚群探知機などの海洋測定機器を製造する会社として設立されたのですが、 卓越した電子技術を応用して1973年にはエレメカ業界へ参入を果たすことになりました。 1973年に発売した野球をモチーフにしたエレメカゲーム「Play Ball」(1973, Gremlin Industries)は売れ行きも良く、 数年後にはビデオゲーム業界へ進出するほどに至りました。
1976年11月のMOAエキスポで発表されたビデオゲーム「Blockade」(1976/11, Gremlin Industries)は、 年代に対する順序は逆ですが、映画「TRON」(1982/8, アメリカ)にちなみ、 「トロンゲーム」と呼ばれているジャンルのゲームで、いわゆる「陣取りゲーム」です。 ルールは非常に単純明快で、自機が移動した跡に壁が発生することを利用し、 それを使って画面内を埋めていきながら、 うまく相手プレイヤーを壁に激突させるというものです。
Break Outがまだヒットする前だったビデオゲーム市場では、 この単純なルールで適度な難易度があるBlockadeが一足先にヒットすることになりました。 そうなると当然のごとく、似たようなゲームが出回り始めます。 その中でもRamtek社の出した「Barricade」(1977/1, Ramtek)はまったくの同一の内容だったため、 不正競争防止を理由に裁判に至りました。 最終的にはRamtek社が折れ、ゲーム名を「Brick Yard」(1977/3, Ramtek)へ改称することを表明して事なきを得ました。 他にも類似するゲームを発売したメーカーは何社かありましたが、 オリジナルの対人戦と違って対CPU戦で遊ぶものなどであったため 訴訟の対象にはなりませんでした。 しかし、海を跨いだ日本ではRamtek社がタイトー社へライセンスしたものが日本で先に発売され、 1976年11月にGramlin Industries社から独占販売権を取得していた中村製作所が2ヶ月おいて発売して後発になるなど、 複雑な事情を抱えることになってしまっていました。
Gremlin Industries社はそのような訴訟の後、 自社の強みである海洋に関するゲームを発売しました。 そのゲームの名は「Depth Charge」(1977/9, Gremlin Industries)と言います。 Depth Chargeとは対潜水艦用の爆雷のことで形状はドラム缶に似ている爆弾を指し、 プレイヤーである駆逐艦がそのDepth Chargeを発射しながら潜水艦を沈めていくというゲームでした。 敵の潜水艦も機雷を浮上させて攻撃を加えてくるので撃沈されないようにうまく避けながら爆弾を投下しなければなりません。 また敵の機雷が海面に出たときには水しぶきがドーン! と上がるのですが、これが意外とリアルで印象的です。
Depth Chargeは、入念なロケーションテストを経た結果、ゲーム性も高くなり人気を博すことになりました。 当時発売されたコンシューマ機「Telstar Arcade」(1977, Coleco)などへも移植され、こちらも人気となりました。 ATARI社もすぐに追従し、類似ゲーム「Destroyer」(1977/10, ATARI)を発表しました。 このゲームは常に動いている自機を2つのボタンで加速/減速してスピード調整しながら、 パドルコントローラーを使って爆破をコントロールするというもので、 同じ駆逐艦をモチーフとして用いながらもまったく違うゲームとなっていました。 もちろん、前述の訴訟の件も絡んでいたためでしょう。 しかし、このことがシューティングゲームに新しい可能性を生み出すということは、 まだノラン・ブッシュネルは知る由もありません。
一方、日本ではDepth Chargeの人気にあやかった「サブハンター」(1977, タイトー)、「デプスボム」(1978, セガ・エンタープライゼス)などのゲームを発売していましたが、
Depth Chargeを進化させて完成度を高めた「ディープスキャン」(1979, セガ・エンタープライゼス)が発売された後、ブレイク、ロングヒットとなりました。
実はスペースインベーダーブームに乗り遅れることになるセガ・エンタープライゼス社は、
技術力増強のために1979年にアメリカ支社でGremlin Industries社を買収して技術部門を作ったのでした。
数年後、技術力をつけたセガ・エンタープライゼス本社は、この技術部門をBally社へ譲渡しましたが、
1983年に起こる「アタリショック」の余波を食らい、結局は営業停止することになってしまうという不運に見舞われてしまうのでした。
Exidy社は1974年に創立された会社で、Ramtek社が倒産した後にポール・カウフマンを中心に同社のメンバ達が再び集まって興しました。 「Exidy」という名前は素晴らしさを原動力にするというような意味合いをこめて「Excellence in Dynamics」から取られたのですが、 Exidy社が世の中に認知されることとなった最初のゲームは「Excellence」からは非常に程遠いものとでした。 1976年、Exidy社はが前年に公開されたシルベスタ・スタローン主演の「Death Race 2000」(1975, アメリカ)に触発されて「Death Race」(1976, Exidy)を開発しました。 ゲームの内容も映画のストーリーに沿ったもので「レース中に人を殺すとポイントを獲得する」というアイディアをそのままゲームとし、 画面内で暴れる小悪魔「グレムリン」を轢き殺すとスコアが上がるという設定にしていました。 しかし、ゲーム中に登場するのはグレムリン以外にも「糸人間」と呼ばれる人型のキャラクタがいたため、 非常に野蛮で暴力的な内容のゲームとして取り沙汰され、 CBSニュースも「ゲームが精神的にどのような影響を与えるのか」というテーマで60分の特別番組を組むなどしたため大きな議論を巻き起こし、 社長であるポール・カウフマンはメディアから叩かれることとなってしまいます。 このゲームの発売によってExidy社は「世界で始めて暴力的なゲームを作った会社」として認知されてしまうことになってしまったのです。
日本においてもこのゲームは1978年春先に問題視されました。 社団法人青少年育成国民会議は「これは交通殺人ゲームだ。青少年の健全育成上、また交通安全対策上、行きすぎ」として、 関連団体や輸入業者に対して営業自粛を求める一方で、警視庁・警察庁に対しては速やかに対策を講じるように申し入れを行いました。 また、全日本遊園協会や横浜市の輸入業者に対しては1978年4月17日付の文書にて要望を提出しました。 それでも自粛措置は取られなかったようで、国内販売は細々と続いていました。 5月に入ると神奈川県警はDeath Raceを製造・販売していた 「ボナンザ・エンタープライゼス」「エスコ貿易」「インターナショナル・コインマシン」の3社に対し、 「型式認可の表示がない」として電器用品取締法違反で摘発、家宅捜索を行いました。 関係書類などを押収され、店頭のゲームは使用を禁ずるという措置が取られます。 結局、エスコ貿易を除く2社から4名が逮捕されました。 読売新聞は『「殺人ゲーム」まっ殺』の見出しを打つなど、 半ば強引に沈静化を図られたような形でこのゲームの問題は消えていくこととなったのです。
しかし、その汚名を返上するかのようにExidy社は翌年にヒットするゲームを開発しました。 Break Outを発展させたゲーム「Circus」(1977, Exidy)です。 Circusはパドルでシーソーを動かし、画面内を飛び回る人間をキャッチして、 シーソーの反対側に乗っている人間を再び空中に飛ばすことで画面上部にある風船をすべて割っていくというゲームです。 このCircusでのヒットに続き、スターウォーズにインスパイアされて作成した「Star Fire」(1979, Exidy)がブレイク、 Exidy社は良質なゲームを作る会社として徐々に変わりつつありました。
Star Fireはスターウォーズに登場するX-WINGと呼ばれる戦闘機に似た戦闘機に乗り込み、 TIEファイターに模した形をした敵戦闘機を撃墜していくというシューティングゲームです。 当時としては珍しく、カラフルで大きなキャラクタが動く擬似3D画面であったことで一躍人気となりました。 ゲーム構成は非常にシンプルでしたが、自機へのダメージが部分的な損傷で済むなどのリアリティを持たせてありました。 また、ビデオゲームでは初となるコクピット型筐体に座り込み、 操縦桿を操りながら敵を破壊していくという形式面でのリアリティも追及されました。 以後、スタイルはこのStar Fireで確立されたものを模していくことになっていきます。
また、Star Fireは世界ではじめてハイスコアネームを登録できるようにしたゲームでもあります。
同時に、その新しい機能を用いて遊び心を持たせた点が非常に好感が持てます。
その遊び心とは特定のイニシャルを登録することで隠しメッセージが表示されるというもので、
例えば「TZM」と入力すると友人TEDへ向けたメッセージ「ようTED、フォースがあなたと共にありますように」などと表示されるようになっているのです。
残念ながらExidy社は設立から10年余りで姿を消すことになってしまいますが、
ゲーム業界へ残したいくつかのプレゼントは決して今でも色褪せずに受け継がれていくことになったのです。
そしていよいよ1978年、スペースインベーダーが発売されます。
スペースインベーダーは縦に5段、横に11列の計55匹のインベーダーがミサイルを落としてプレイヤーを攻撃してくるというシューティングゲームです。
インベーダーはまとまって横方向へ移動をしていき、どれか1匹が端へ辿り着くと全体的に一段下がって侵略を始め、
再び逆方向に移動を始めます。この動作を繰り返して段々と侵略を行ってきます。
インベーダーがプレイヤーの存在する地表まで降り立つと占領されたことになり、
残機があってもゲームオーバーとなってしまいます。
ですからプレイヤーは占領されないようにすべてのインベーダーを撃退する必要があります。
画面上に存在するインベーダーをすべて撃退すると1面クリアとなり、
最初から少し侵略された状態で次の面が始まります。
ゲームの企画はそれまでブームとなっていたブロック崩しタイプのゲームより面白いものを作成するという方向で立案されました。 また、技術面からのアプローチもありました。 当時のゲームはエレメカも含め、ゲームを作成するごとにハードウェアの設計から行うわなければなりませんでした。 しかし、それでは設計を行うためにかなり時間を割かねばなりません。 そこで西角は以前作成したゲーム「ウェスタンガン」(1975, タイトー)で利用していたマイクロコンピュータを採用することに決めたのです。 ソフトウェア時代の到来をも予測した上での決断でした。 日本のゲーム開発ではまだマイクロコンピュータを利用することはなかったのでマニュアルなどはありませんでした。 そこで西角はアメリカで行われた講習会に参加したり、Midway社の基盤を解析したり、 英文の資料や書籍などをつたない英語力で訳しながら少しずつ勉強していきました。 しかし、そのマイクロコンピュータを利用することによって、 グラフィックやキャラクタの動きをそれまでのゲームにはなかった方法で動かせると確信し、 ブロック崩しのゲームデザインを元にしながら、 ブロックのキャラクタを変えてシューティングゲームのような形へ徐々にシフトしていくことになります。 それは日本でも公開されてヒットした映画「スターウォーズ」からヒントを得たもので、 「宇宙人が攻めてくるゲームにしよう」と構想がまとまり始めます。
開発中のスペースインベーダーは、非常に人気の高かったアイドル歌手「ピンクレディー」 が歌っていたヒット曲「モンスター」をもじって「スペースモンスター」と名づけられました。 その「モンスター」の原型となったのがHerbert G.Wells原作の小説「宇宙戦争」(1897, Herbert G.Wells)に登場する火星人です。 火星人はタコがモチーフとなっていましたが、 スペースインベーダーでは「タコ」「カニ」「イカ」をモチーフにしました。 原画を起こし、それを元に自作したライトペンを使いながらドット絵へ落し、 アニメーションするキャラクタを作成していきます。 当時のゲーム開発はひとりですべてをこなすことが当たり前の時代だったため、 西角は企画からハード設計、プログラムまでをすべて自分で行いました。 開発に必要となる「ライトペン」や「アニメーションツール」などもすべて自作です。 なぜならゲーム開発に使えるようなツールを購入すると1,000万円ほど必要になるためで、 中でもi8080の開発装置を購入すると500万円くらいかかり、とても購入できるような代物ではありませんでした。 スペースインベーダーの開発は試験的な位置づけで、開発費用すらほとんどもらえなかったのです。 西角はインテルにレンタルしてくれと頼んだそうですが、あっけなく断られたそうです。 上司に何とかしてほしいと相談もしましたが「自分でやれ」と一蹴されたといいます。 しかし、よく考えてみればまだ売れるかどうかもわからないものに予算が割けるわけもないのは当たり前です。 西角は「研修みたいなもんだし、自分でゲーム基板を改造して作ってみるか」と開き直ったそうです。 スペースインベーダーは企画をしてから1年以上掛かって完成したのですが、 その開発期間の6割以上がこれらのツールの作成に充てました。 途中、ゲームの開発を止めて1ヶ月ほどツールの作成に充てることもあったといいます。
開発開始から7〜8ヶ月ほどで上司に「西角、そろそろできてきたか?」と言われて社内へお披露目することになりました。 まだ完成はしていなかったのですが、「ちょっとやらせてみて」と社内のエンジニア達が群がってきたといいます。 しかし、スペースインベーダーの試作機は1台しかなく、 返してもらおうとしても「もうちょっと、もうちょっと」となかなか返してくれなかったそうです。 みんなが代わる代わる遊びに来るものだから、半日くらい仕事にならない日もありました。 完成間近になるとほぼ1日中遊んだりされました。 このように開発チームの中での評判はそこそこ良かったのですが、 営業からは「難しい」とか「売れない」などハッキリ言われたそうです。 それまでのシューティングゲームと言えばプレイヤーが一方的に敵を撃つことはあっても、 敵がプレイヤーを認識して攻撃を加えてくることがなかったからです。 今まではそのような意見をもらうこともなく、西角が作成したゲームを「いいね、いいね」売ってくれた営業も 「まだ残機が残っているのに遊べないというのはどういうことか。これではお客さんからクレームが出る。これは許せない」と、 侵略されるとゲームオーバーになるシステムに対して非常に厳しい評価を下しました。 西角はこのような評価を言われることは初めてだったといいます。 営業から直すように言われたのですが、西角は「もう時間がないので直せない」と開き直り、 開発部長からも「もうどうなっても知らないぞ。売れなかったらお前が責任を取れ。」と厳しく言い渡されました。 しかし、開発チーム内では評価が良かったこともあり、西角は売れると確信していました。 6月16日にタイトー本社ビル1階にあるショールームで行われた展示会へ、 6月23日に国際貿易センターで行われた新作品展示会において発表されました。 営業の予想した通りに業者からの評判も芳しいものではなく、そのときはほとんど売れませんでした。 営業からも「他のは売れるがお前のはひとつも注文が来ない」と報告をもらったといいます。 タイトーには直営しているゲームセンターがあったので、 「元くらいは取れるだろう」と半ば諦めて店頭に置いてもらうと、 今までにない目新しさからたちまち人気となって注文が殺到しました。
7月の発売以降、タイトーの宣伝活動も手伝って販売台数は月を追うごとに倍近いの台数を売り上げ、
1978年12月までには14社に対して販売を許諾したものを含め、のべ10万台を販売しました。
このような経緯で1978年10月から1979年の初頭にかけて日本中を席巻したスペースインベーダーは、
ゲームセンターのみならずアチコチの喫茶店に置かれインベーダーばかりを店内に置く「インベーダーハウス」と呼ばれるようになります。
それどころかスペースインベーダーの人気に客を取られ売り上げが減って行ったパチンコ屋が軒並みインベーダーハウスになるほどでした。
発売から2ヶ月程度しか経っていない9月にはついに生産が追いつかなくなるような状態に陥ってしまったのです。
1台でもスペースインベーダーを手に入れようと思ったオペレーターやディストリビューターはタイトー本社まで日参するまでになりました。
売価70万円に対して現金100万円を持って来て「売ってくれ」という人も来たり、
「国会議員の紹介で来た」という人も現れました。
また、国会議員自らも電話をかけてきたこともあり、
「現金で5,000万円の用意があるから何とかまわしてくれないか」ということもあったとのことです。
このように作っても作っても足りないということは、
裏を返せばニセモノを作っても売れる・儲かるということで
ゲームメーカーが乱立し、大量のコピー基盤(*1)が作成されることになりました。
このバブルに乗っかってインベーダーゲームを作成・販売した会社は30社ほどに登るというのですからその凄さがうかがい知れると思います。
面白いのはそれぞれのコピーゲームで微妙に違う点があって、
例えば「口裂けインベーダー」(1978, メーカー不明)などはインベーダーが移動するときに真ん中が裂け、
その間を狙って30点インベーダーを倒すことができたり、
「スペース・フィーバー・ハイスプリッター」(1979, 任天堂)などはインベーダーをちゃんと倒さないと分裂して増えたりします。
このようにして各社でちょこっと改造されたインベーダーは当時を知る方によると50種類ほどのバリエーションを産むことになったそうです。
また、少し色をつけてインベーダーを売り、定価の分だけ会社に支払い、残りを懐にしまったという営業も中にはいたようです。
スペースインベーダーの人気の凄さはどれほどのものだったのでしょうか。 それを示すいくつかもの逸話が残っています。 ブームの真っ最中ではスペースインベーダーを遊ぶために4時間待ちができるほどで、 糸井重里は遊べる穴場を探しにホモバーまで行ったと語っています。 他にもタイトーのサービスマンがあるゲームセンターへ行くと、 100円玉が入らず機械が動かなくなっていたという苦情を受けたそうです。 調べてみるとコインケースから漏れだした溢れんばかりの100円玉のせいで100円玉が投入できなくなっていたためです。 100円玉は週に2回ほど集金していたそうですが、その間に次々とコインが投入されるため溢れ出してしまった、というわけです。 タイトーは筐体内にあるコインケースを4倍ほどの大きさに改良して対処したといいますが、 今度は一度に集まる金額が増えることになり、ゲームセンターなどから集められた大量の100円硬貨が別の問題を生みました。 ゲームセンターなどは業務開始時に100円硬貨などを集めて両替に行きますが、 その100円硬貨の山を前にした銀行は「業務に支障が出る」として両替を拒否することが起こったほどです。
このような逸話を残すほど巨大な社会的ブームになったため、 日本ではインベーダーと戦う人が日に日に増えて行きました。 その結果、市場に出回る100円玉が不足するというような異例な事態にまで発展し、 1979年4月には通常の3倍にもなる6,600万枚もの100円玉が増発されてしまうことになったしまったのでした。 最終的には発売から1年ほどで約30万台が市場に出回り、2,000億円を超える売り上げとなったといいます。
1979年の春ごろから「口裂け女」という都市伝説が岐阜県を中心に流布し、
日本中の小中学生を震撼させたことがあります。
口裂け女は顔の半分を覆うほど大きなマスクをしており、子供を捕まえては「私、綺麗?」と聞いてきます。
ここで「いいえ」と答えるとその場で鎌で切り殺されてしまいます。
逆に「はい」と答えるとニタッと笑い、「ほんとに綺麗ィィィィィ!?」とマスクを剥がし耳まで裂けた口をあらわにし、
その顔にビックリして子供が逃げるとカマを振りかざしながら死ぬまで追いかけてくるというものです。
追いかけてくる速さは100mを7秒というとてつもないスピードと伝わっています。
全国の小中学生女子の間で噂になり、半年ほどで全国に広まったと言われています。
私のところでは「整形手術に失敗して口が裂けてしまった」という話でした。 そしてその担当医師がポマードを愛用していたことから、 口裂け女が追いかけてきたら「ポマード!」と叫ぶと口が裂けてしまったときのトラウマを喚起して怯むので、 その間に逃げるようにと友達同士の間で言われていました。 元々、口が裂けてしまったのは治療中に 「そのポマード臭い主治医から顔を背けた瞬間に不可抗力で口が裂けてしまった」というのが原因(*1)らしいのです。
学校のトイレに隠れていて飛び出してくる、という話があったのですが、 実際に私の学校では口裂け女がトイレに隠れたという日があって、 トイレの前に恐々ながらも10人くらい、10mくらい離れたところに50人くらいの人だかりができ、 先生を巻き込んだ大騒ぎになりました。その後しばらくは休み時間以外に一人でトイレに行けない子供が続出しました。 この都市伝説は全国各地の小学生や中学生に尋常ではないほどの恐怖を与え、 福島県郡山市や神奈川県平塚市ではパトカーが出動したり、 北海道釧路市では集団下校が行われたりしたほどの騒ぎとなったとのことです。
先ほど出てきた口裂けインベーダーはこの口裂け女をモチーフにしての命名のようですが、 子供が恐怖を感じる存在まで遊びの中に組み込んでしまう大人の世界というのはある意味凄いのかもしれませんね。 またこの口裂け女を取り入れたゲームは他にもあるようです。
口裂け女から無事逃げるには様々な方法があると伝えられているのですが、 私の挙げた「ポマードと叫ぶ」とういものの他に「べっこう飴を与える」というものがあります。 べっこう飴は口裂け女の好物で、これを口裂け女に与えると無我夢中で舐め始めるため、その間に逃げられるというものです。 この「べっこう飴」がTSG(理論科学グループ)が作成した「平安京エイリアン」(1979, 電気音響)にも取り入れられ、 「べっこう飴ボタン」を押すとべっこう飴を置くことができ、 しばらく敵を足止めすることができるアイテムとして登場していたようです。 しかし、当時のハードウェアでは1レバーとボタン3つというものが作成できなかったため、 アーケードゲームで発売する際になくなってしまったとのことでした。
インベーダー・ブームはあらゆるメディアに進出して大きな経済効果をもたらしました。
スペースインベーダーにはプレイ時に点数が変動するUFOの存在があったり、
名古屋打ちと呼ばれるバグを利用した攻略法、レインボーと言われる画面がバグる裏技など、
当時のゲームでは考えられないほどのフィーチャーが存在するのですが、
これらをまとめた「インベーダー攻略法 これであなたも10000点プレイヤー」(1979/6/11, ヘラルド出版)という攻略本が発売されました。
この本には先ほど挙げた「UFOの点数の秘密」「名古屋打ち」「レインボー」などはもちろんのこと、
亜流インベーダーの紹介とそれぞれの攻略法(*1)が詳細に載っていたようです。
現在はゲームの攻略本が当たり前のように発売されていますが、
攻略本ブームが起ったのは「スーパーマリオブラザーズ」(1985, 任天堂)からでしたから、
それを遡ること6年というのはとても凄いことだと思います。
それから当時は映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977, アメリカ)などの影響でディスコが流行り、原宿で竹の子族などが生まれました。 そしてそのブームに乗っかったインベーダーはディスコミュージックにまで進出し、 アルバム「ディスコ・スペース・インベーダー」(1978, EPファニー・スタッフ)が、 タイトー公認で発売されるまでに至りました。(*2) ゲームミュージックがメディアに大きく取り上げられるようになるのはもっと後年になってからで、 「ゼビウス」(1983, ナムコ)が好きだった細野晴臣(YMO)が監修し、ナムコから正式に承諾を受けて発売したアルバム 「ナムコ・ビデオ・ゲーム・ミュージック(*3)」(1984/4/21, アルファレコード)まで待たねばなりませんでした。 「ゲームミュージック」というものがまだ市民権を得ていない時代にこのようなアルバムを発売されたということも、 スペース・インベーダーの人気の片鱗を知ることができます。
しかもスペースインベーダー人気は攻略本や音楽アルバムだけに留まりません。 なんと映画にも影響を与えるまでの熱狂ぶりでした。 当時の映画の中で日本においても大変な人気のあった「Mr.BOO!」という作品があるのですが、 この4作目に当たる作品がスペースインベーダーの影響を受け、 「Mr.BOO! 〜 インベーダー作戦 〜」(1978, 香港)という名前がつけられることになってしまったのです。 しかし、この映画には肝心なインベーダーは出てこないそうですから、 インベーダーの人気に乗った邦題となってしまいました。
*2 ゲームの音を先に音楽へ取り入れたのはYMOが先だったようですね。 同グループのファースト・アルバムには「コンピューター・ゲーム − インベーダーのテーマ −」、 それから「コンピューター・ゲーム − サーカスーのテーマ −」という曲が収録されています。 しかし、ゲーム単品を使ったレコードが出たのはやはりこの「ディスコ・スペース・インベーダー」が最初です。
*3 なんと2001/3/23にCDでリマスタリングしたものが再販されました。
インベーダーブームは多くの「ハイスコアラー」を生み出すキッカケにもなりました。
全国ではインベーダーゲームを使った大会が開かれるようになり、
漫画「ゲームセンターあらし」(1979, すがやみつる)の連載がコロコロコミックで始まります。
(画像は『ゲームセンターあらし』公式サイトより引用)
ゲームセンターあらしはライバルとゲームのハイスコアを競い勝ち負けを決めるという漫画で、 主人公の石野あらしはそのゲームの腕前を振るってライバル達をバタバタとなぎ倒していき、 神や悪魔の戦いにも参加し、最後には宇宙を救うというとんでもないスケールのものでした。 石野あらしの得意技「炎のコマ」「水魚のポーズ」など、きっと練習した子供も多かったでしょう。
漫画の中で新しいゲームが出るとそのゲームのルールとちょっとした攻略法が掲載されることもあり、 子供達の人気を集め、ファン層の広がりとその後のゲーム人気にも押されて1982年にはTVアニメの放映が始まります。
そしてゲームセンターあらしのTV放映が終わった後、ゼビウスの登場でゲームの攻略法を載せたミニコミ誌が登場したり、 「マイコンBASICマガジン」(1982, 電波新聞社)の1984年1月号より、 全国のゲームセンターから応募のあった色々なゲームのハイスコアを集計して掲載する「CHALLENGE HIGH SCORE!」の連載が始まります。 こうしてゲームセンターで遊ぶプレイヤー達にハイスコアブームを巻き起こしていくことになります。
ハイスコア加熱の経緯は以下のようになっています。
| 1978年 |
|
| 1979年 |
|
| 1982年 |
|
| 1983年 |
|
| 1984年 |
|
| 1985年 |
|
| 1986年 |
|
現在でもゲームセンターあらしはインベーダーブームで登場したと思っている方が多いようなのですがこれは間違いで、 同漫画がコロコロコミックの読み切りが登場したのは第9号(1978/11/15発売号)にまで遡ります。 内容も「ブロック崩し」で争って勝ち、サラリーマンを撃退するというものでした。 ですからインベーダーブームより少し前に起ったブロック崩しブーム、TVゲームブームによるものだと判ります。
1977年の日本のTVゲーム市場を見てみると組み立て式のものも合わせて約150種類あまりのゲーム機が発売されていて、 実売価格が1万円を切るものが出現するなどし、新聞紙の紙面を賑わせるほどのニュースになりました。 また、その前年の1976年にはATARIジャパン設立に絡んで中村製作所(現ナムコ)が代理店契約を結び、 正式ライセンスのPONGゲーム機を発売するなど日本におけるTVゲームの普及期となる年です。 しかし、スペースインベーダーが巻き起こしたブームがあまりにも大きすぎ、 そのような事実が霞んでしまったのが誤解を生む原因となったと考えられます。 逆を言えばそれだけインベーダーブームというのがもの凄かったということです。
ゲームセンターあらしの連載期間は1979年8月 〜 1983年10月となっていますから、 実はインベーダーバブルが終焉を迎えた後から連載が始まっています。 「インベーダーバブルの終焉」でも書きましたが、 タイトーがコピーインベーダーの差し押さえ仮処分を申請をしたのは1979年4月で、 漫画を描くための取材期間長く取って3ヶ月と考えても着手がその後になります。
ただ、丁度1979年の5月に東宝、東和、ジャレトの主催で映画「Mr.Boo! 〜 インベーダー作戦 〜」の公開イベントの一環として、 「インベーダーチャンピオン決定・全国大会」が開催されていて、 モニターに世界最大の120インチ画面を使用することなどで注目を集めていますから、 これが連載のキッカケになったのではないかと推測できます。 ゲームセンターあらしは元々、ハイスコアを競うことを手段にした漫画ですから、当たらずとも遠からずではないかと思っています。
なお、すがやみつる自身はアクションやシューティングはあまり好きではないそうで、 連載初期はハム仲間でゲームのうまい人についてメモを取っていたとのことです。 このゲームのうまい人が裏技的なテクニックを すがや氏に伝授していき、 扉ページの裏技ネタへ反映されることになったと考えられます。 しかし、この漫画で裏技を取り上げることでファン層を広げることに繋がり、 そしてこのファン層の広がりが初期の連載を支えてアニメ化のオファーをもたらすことに繋がったのは何とも面白いところです。
スペースインベーダーが巻き起こしたブームは何も良い影響ばかりがあったわけではありませんでした。
何かがブームになるということは他の分野からも人が流れてくるということを意味するからです。
その中で一番の打撃を受けたのがパチンコ業界です
スペースインベーダーが登場する直前のパチンコ産業は正に勢いに乗っているところでした。 座って遊戯できるようになっただけではなく、1972年に新しいタイプの機種「アレンジボール」が登場、 その翌年の1973年には「電動式ハンドル」が付くようになって遊戯者が遊びやすくなりました。 続く1974年には「電動役物」が登場となり、これもまた人気でした。 さらに間寛平が歌う「ひらけ!チューリップ」(1975/8/25, 徳間音楽産業)が大ヒット、 パチンコ史上初となるミリオンセラーを達成します。 日活は山本正之が作詞・作曲したこの歌を原作にし、 パチプロとクギ師を主人公に据えたロマンポルノ映画「濡れた欲情 ひらけ!チューリップ」(1975/12/24, 日活)を作成(*1)するなど、 パチンコ業界は正に勢いに乗り始めます。 パチンコホールも繁華街から郊外へもエリアを拡大して増え始めていくようになり、 1977年にはパチンコ遊戯人口が約3,000万人にも達したことから「国民的娯楽」と呼ばれるほどの巨大な産業になっていました。
しかし、スペースインベーダーが登場すると大人も子供もインベーダーにのめり込むという一大ブームとなり、 顧客は流れていってしまいました。特に若年層のパチンコ離れは深刻なものだったといいます。 売り上げも全体的に10%減となったこともあり、転業や廃業を余儀なくされたパチンコホールも続出しました。 中にはパチンコホールからインベーダーブームに乗ってゲームセンターへ転向する店舗も出現するなどありましたが、 このような形でやっと増え始めた店舗数も大きく目減りしていたため、 全国で1万軒を超えて推移していたパチンコホールはあっと言う間に9000軒台にまで落ち込んでしまいます。 このような危機的状況を受けてパチンコ業界は総出を上げてスペースインベーダー対策を打たなくならなくなるほど打撃を受けていました。 パチンコ業界はかつてもボウリングブームや競馬ブームなど、 他のレジャーがブームになる度に打撃を受けていましたが、 インベーダーブームで受けた打撃は他のレジャーに受けた打撃の比ではなかったのです。
全国遊戯業協同組合連合会はその発足日にちなんで11月14日を「パチンコの日」とし、 1979年11月14日前後の日程でファン感謝デーを全国展開、新たなパチンコファンの獲得を図りました。 三共社、京楽社、平和社というメーカーはそれぞれ、「ブレンド」「UFO」「メテオ」など、 電動役物をマイクロコンピュータで制御する「特電機」と呼ばれるものを市場に投入していきました。 それでもインベーダーブームの人気はなかなか覆すことができす、 市場投入された特電機の成果は今ひとつ出なかったようです。 「何とかゲームに打ち勝たねば、パチンコは再び衰退の一途を辿ることになるのでは・・・」 というムードがパチンコ業界に立ち込めていくようになります。
そのような危うい状況を打破したのが1980年に三共社が発売した「フィーバー」でした。 フィーバーは特電機「ブレイク」の後継機で、三共社が創立15周年を記念して1980年7月から8月にかけて全国各地で行った 「創立15周年記念謝恩特別新型機発表展示会」と題した展示会で発表された機種のひとつでした。 このフィーバーは玉がスタートチャッカーに入賞するとスロットが回転し始め、 リールの回転がストップしたときに「7」が揃うと大当たり、 アタッカーと呼ばれる開口部が30秒開いたままになるようになっています。 アタッカーに玉を入れていくと次々に出玉が払いだされるようになっており、 さらにアタッカーが開いている時間内にVゾーンと呼ばれる場所に玉を入れると、 アタッカーが開閉を繰り返すようになるため、一度当たりさえすれば大量の出玉を得るチャンスも大きいというものです。
このフィーバーは出玉が過激であるということから、発表された当初は導入を敬遠するパチンコホールが多かったといいます。 これが人気となるのは約半年後、新潟県長岡市のパチンコホール「白鳥」が123台ものフィーバーを一挙に導入したことがキッカケと言われています。 白鳥はホールコンピュータメーカーの「エース電研」の直営店で、 このときの出玉の状況(*2)や人気ぶりがホールコンピュータを介して全国へ広まったのです。 当初は過激と受け入れられなかったフィーバーのゲーム性が遊戯者には受けた理由は、 三共社スタッフがたまたまパチンコホールで遭遇したひとコマがもたらしたものです。 スタッフ達は機械が壊れてチューリップが開きっ放しになって非常に大喜びしている遊戯者を目の当たりにし、 これをヒントにしてその遊戯者が大喜びしている状況をうまく制御しつつも再現させたのです。 遊戯者に嬉しさを与えつつ、ゲームとして成り立たせることに腐心した結果、そのゲーム性は遊戯者に理解され、ブームに繋がったのです。
フィーバーのブームに弾みをつけるかのように、さらに平和社からも「羽根物」と言われる「ゼロタイガー」が発売され、 パチンコはさらにゲーム性が高まっていくと同時に顧客の獲得・奪還に成功し、業界の危機を救うことに繋がっていきました。 インベーダーのブームに泣かされたパチンコ業界でしたが、こうした発明を生み出すことに繋がり、再び盛隆を極めていくことになっていくのです。
*2 玉箱が不足してしまい、バケツを代用品に使ったなどの逸話があります。
スペースインベーダーの人気はとても激しいものでした。 喫茶店のみならず、スナックやレストラン、ホテルにまでも筐体が設置され、 日本人は金と暇さえあればインベーダーと戦っていると表現してもよいほどブームになりました。 当時の調査によれば、一人当たりの平均にして月4,900円をインベーダーゲームにつぎ込んでいたそうです。 ピーク時には全国に30万台以上筐体があり、1台につき1日10,000 〜 15,000円ほどを稼ぎ、 市場全体では1日で26億円稼ぎ出すというモンスターゲームでした。 あまりにのめり込んだ児童がその日のうちに3,000円以上もつぎ込むという異常な事態も引き起こしていたそうです。
このように市場価値が高いスペースインベーダーは多くの犯罪を産み出すキッカケになっていきました。 中でも多かったのは筐体泥棒とコインボックス荒らしです。 筐体泥棒は深夜に店舗へ押し入ってテーブル筐体ごとトラックなどで持ち去ってしまうという手口です。 テレビゲームのテーブル筐体は1台当たり40 〜 50kgもあるため、集団で行われていました。 1979年8月、東京都福生市のスナックから2台が盗まれたことを皮切りに、 毎月2件、3件と被害が起るようになりました。 事件の内容も様々で、 リース会社の倉庫から新品筐体12台を盗み出し、 盗んだ筐体をさらにゲームセンターへリースして「小遣い稼ぎ」をしていた会社員4名などが逮捕される一方で、 故障してしまって店頭に積んであった筐体までも持ち去るという珍妙な事件までありました。 この筐体泥棒による被害は1979年5月中旬までに計59台、被害総額1,830万円になる大きなものでした。 被害が絶えなかった理由は、筐体に張られたシリアルナンバーを剥がしてしまえば、 それが盗品であるかどうかの判別ができないためで、 タイトーはシリアルナンバーのないものを取り扱わないよう各社に通達を出したほどでした。 同様に被害が毎月増えていったコインボックス荒らしは、 筐体の中にあるコインボックスから直接現金を盗み出す手口で行われ、 同5月中旬までに計83件、被害総額1,149万円にも上りました。 コインボックス荒らしによる事件は、 この後も増え続け、インベーダーブームのピークまでに計140件、被害総額3,500万円という甚大な被害を生むことになっていきます。
暴力団もインベーダー人気に目をつけ、筐体を設置している店舗やリース会社へ赴いては「あいさつ料を払え」などと恐喝を行ったり、 ソープランドなどで働かせる計画を立て、ゲームセンターやディスコで遊んでいる少女らに声をかけて言葉巧みに連れ出したりするなどし、 あらゆる手口を使って資金を調達していくようになりました。 これを受けて警視庁は「暴力団の新たな資金源になっていくことになる」と判断し、 業界に対して監視を強めるように指示を行いました。
犯罪行為を行っていたのは何も大人達だけではありません。 小学生から高校生までの学童にも犯罪に手を染める者が後を絶ちませんでした。 インベーダーゲームを遊ぶ金欲しさに起った学童により事件は窃盗や空き巣などが多く、 ある中学校では2年生のグループ31人が集団で万引きを行うという事件が起きました。 根城としていたゲームセンターを拠点に2 〜 3人のグループに別れて万引きを繰り返し、 得られた盗品を同級生などに売って換金し、インベーダーゲームに興じる費用に充てていました。 中には盗品のリストをノートに書き溜め、自慢しあうという生徒もいたそうです。 沖縄県では校則でインベーダーが禁止されていた小学校4年生の少女が、 隣家などから現金約30万円を盗み出し、フェリーを使ってインベーダーが禁止されていない市まで移動して補導される事件がありました。 東京都江東区で小学校6年と2年の兄弟が起こした空き巣事件では被害総額が23万円、 東京都武蔵野市で中学1年生が親兄弟の財布から金銭を抜き取った事件では被害総額10万円と額面が大きいことも特徴です。 また、新聞紙面に大きく取り上げられたグループ犯罪となったのが、 神奈川県横浜市と川崎市で「合鍵」を使って行われた犯罪でした。 この事件は父親がゲーム機製造メーカー勤務の家庭から発生したもので、 父親が家に持ち帰った筐体の鍵を息子が目を盗んで持ち出し、 合鍵を作って同級生などに1個500円で売り始めたところ、口コミ人気で広がっていったものでした。 横浜署員がゲームセンターで合鍵を持った中学生を発見し、 芋づる式に生徒が見つかり、中高校生併せて65人が補導されました。 このニュースが朝刊を賑わした同日、 川崎市教育委員会は市内の全小中高校に対して、 インベーダーで遊ぶことを禁止する措置を取るよう、各校に通達、 同日の夕刊に掲載されるほど迅速な対応を迫られました。
これ以外にも5円玉にセロテープを巻きつけて偽造100円玉を作り、ゲーム機の投入口へ入れて遊ぶ手口もありました。 この手口が増えて行ったのは丁度、学童達が春休みに入った時期と重なる3月下旬辺りのことだったそうで、 1979年5月に発行された毎日新聞や朝日新聞がその事件を扱った内容を取り上げました。 それらの新聞が伝えた内容によれば、 渋谷区にあったゲームセンターにおいて設置していた11台のインベーダーゲーム機の中から偽造100円玉が20枚見つかったそうです。 以降、そのゲームセンターでは見張りを立てて偽造100円玉を使用している人間がいないかどうか監視することにしました。 監視を続けていると小学生がその偽造100円玉を使っているのを目撃し、現行犯で捕まえることに成功しました。 しかし、それでも偽造100円玉は減ることはなかったそうです。 平日1日30枚程度が見つかるような日が続き、休日には1日50枚も利用されているときもあったそうです。 そのように次第に被害額が大きくなっていったことから同ゲームセンターは渋谷署に届け出ました。 このことで初めて偽造100円玉の手口が明らかになったのです。 警察がさらに調べてみると浅草や新宿、成城学園前などでも同様の手口を使った偽造100円玉が見つかり、 口コミで広がったものではないかと推測したそうです。
偽造100円玉はインベーダー以外でも悪用されるようになり、 同年4月末日には中央線国分寺駅の自動券売機で大量に見つかるようになりました。 その偽造100円玉が顕著に利用されていたのが中央線の国分寺〜新宿間、山手線各駅のうち、 主に学生が利用する駅であったため、日本国有鉄道(国鉄:現JR)は5月7日より見張りを立てて監視を始め、 実際に偽造100円玉を利用している19歳の少年を逮捕しました。 この頃の券売機は硬貨の認識能力も低かったのですが、 以降は改良されていき認識能力が上がっていったため、 この偽造100円玉を使った犯罪は徐々に減っていくことになります。 ただ、すぐにこの犯罪が減って行ったわけではなく、 認識能力を上げたものに対抗するかのように、 5円玉の穴を鉛や粘土で塞いで100円玉と同じ重さになるように調整するなどしていた者もいたそうです。 また、同時期には100円玉に糸をつけてゲームをスタートさせて釣り上げるという手口も横行しました。
このような事件が相次いで発生したことが連日報道されて社会問題化し、 各関係団体は次第に対応を迫られていくようになりました。 自治省はゲームに対して「娯楽施設利用税」を課税するべきかどうかのの検討に入り、 日本娯楽機械オペレーター協同組合などの業界団体は少年の深夜立入り禁止などの自主規制を実施、 警察からの要請を受けた全日本遊園協会も「インベーダー自粛宣言」を1979年6月2日に発表しました。 発表された内容は以下の4つです。
- インベーダータイプのゲームマシンは管理者のいない場所には設置しない
- 保護者の同伴がない15歳未満の者はインベーダーゲームをさせない
- 18歳未満の者は午後11時以降はゲームセンターへの立ち入りを禁止する
- ゲームの結果により景品などを提供する行為を禁止する
これを受けて警察庁も6月8日に全国都道府県の各県警に対し、 「インベーダーゲーム機ブームに対する業界の自主規制と警察措置について」という通達を出すと同時に、 非行の監視や暴力団介入の取り締まりを指示、1979年7月からはインベーダーゲームの実態調査などを開始しました。
6月13日に開かれた都道府県教育委員長・教育長会議においてもインベーダーゲームは話題として取り上げられ、 文部省の初等中等教育局長が非行問題に触れた折に、インベーダーに関連する社会問題にも触れました。 局長は自身でもインベーダーゲームを体験した上で、 「千円くらいあっという間になくなってしまう。これでは金銭の浪費、非行に繋がる」と発言しました。 同時に、インベーダーで行った社会問題を含めた低年齢化する犯罪に対しては「学校以前の幼児時代からの躾が大きな意味を持つ」として、 「各家庭に呼びかけることも含めて指導して欲しい」(*1)と言葉を繋ぎました。 結びには「非行の原因となるものが社会に満ち満ちている。インベーダーゲーム対策を含めて非行化防止のため努力して欲しい」と発言したこともあり、 学校や教育委員会、PTAなども業界団体と連携を取って一層の非行防止に努めました。
ゲームセンターは次第に「非行の温床」「犯罪の温床」として見做されるようになっていき、 このような事態に対応するかのように、 大手ショッピングセンターのダイエーやイトーヨーカ堂などでは、 店頭からインベーダーゲーム機の撤去を行うという対策を講じる店舗も出現、 インベーダーブームは一気に沈静化の方向に向かっていく(*2)ことになるのでした。
*2 「それは『ポン』から始まった」では自粛するように仕向けられた、とされていますが、 犯罪の被害総額などを考えると無法にも近かったゲーム業界が自粛することはある種、必然だったと思います。 ただ、この6月前後にマスコミの動きが異様に活性化しているのは事実で、 マスコミのネガティブキャンペーンが「ブームに冷や水を浴びせた」ということが、 突然のブーム終了をもたらしたというのは正しいと思います。
スペースインベーダーの登場は産業バブルを起こしました。
雨後のタケノコのように多くのインベーダーゲーム制作会社が乱立され、
スペースインベーダーのコピー基盤が大量に作成されることになりました。
これらコピーインベーダーの数は50種類から70種類にも登ると言われています。
警察庁がテレビゲーム機について初めて本格的な調査を行い、8月16日に発表した結果では、
全国7万の店舗に設置された28万台のゲームのうち、81%に当たる23万台がインベーダータイプのゲームだった(7月1日現在)とのことでした。
設置されている場所は喫茶店が66%、喫茶店以外の飲食店が22%、ゲームセンターが12%という比率で、
いかにインベーダーハウスが多かったかを物語っています。
相次ぐコピーゲームの作成を受け、 タイトーは1979年4月7日に「ワールド・ベンディング」と「フジコロム」の2社に対し、 「便乗商法である」という理由から、コピーインベーダーの製造販売を差し押さえを求める仮処分申請を大阪地裁へ提出しました。 当時、タイトーがスペースインベーダーで売り上げていた金額は2,000億円を超えると言いますから、 オリジナルを作成していたタイトーはコピー品を排除し、もっと儲けたいというところが本音かもしれません。 しかし、当時は裁判を行うにしてもテレビゲームに関するような判例がありませんでし、 タイトーもDepth Chargeをコピーしたサブハンターをはじめ、いくつかの類似ゲームを作っていました。 当時の日本ではどこかのメーカーがヒットする作品を出せば、 ハードウェア・ソフトウェアの技術を問わず、それをコピーして他社が追従するということがメーカーの間では常識となっていたからです。 ですから、他のメーカーからは「独自性の主張するのは独占禁止法と矛盾するのではないか」という意見が出されたりしました。
仮処分申請後もコピーゲームの製造が留まらないことに業を煮やしたかのように、 遂にタイトーは「日本物産」と「東亜セイコー」を相手に大阪地方裁判所で訴訟を起こしました。1979年5月4日の午後のことです。 中でも決定的な裁判とされたのが「ウコー・コーポレーション」を相手取った訴訟で、 東京地方裁判所はタイトーの意見を認める判決を下し、ウコー・コーポレーションに損害賠償を命じました。 1979年春先から次第に新聞各紙を賑わせ始めた、インベーダーに関連する社会事件が連日報道されたこと、 「インベーダー自粛宣言」とそれによって起った店頭から筐体の自主的な撤去などもあり、 次第にインベーダーブームは潮を引いていくことになっていったのです。
この煽りを受け「インベーダー倒産」が相次ぎました。 この結果、ピーク時には28万台もあったゲーム機は1980年1月までの約半年の間に半数ほどの台数にまで落ち込んでいきました。 それでも半分程度で済んだのはライセンス契約を行ったものや和解した会社のものが残っていたからです。 インベーダー裁判があった後、生き残った会社はインベーダーを発展させたゲームに注力するようになります。 悪い言い方をすれば「二匹目のドジョウを狙え!」ということなのですが、 そのお陰で「アイディアを発展させ追求していく」というゲーム開発の黄金期に突入していくことになります。
日本でインベーダーバブルが弾ける一方で、海外ではひとりの実業家が生まれようとしていました。 のちにソフトバンクの社長として名を馳せる若き日の孫正義です。 彼は小さい頃から政治家や実業家になることを夢見ていました。 そうは言っても政治家はなろうと思って簡単になれるような職業ではありません。 しかし、事業家であれば努力次第でなることができる。 そう考えた孫は中学3年のときから実業家になる決心を固めていきます。 孫は進学校へ進んで行ったのですが「卒業証書が実業家になるためには役に立たない」 と思って周囲の反対を押し切って中退、単身アメリカへ留学しました。
留学後、19歳のときに事業家になる決意を「人生50年計画」というもので表しました。
- 20代に名を上げる
- 30代で軍資金を最低1,000億円を貯める
- 40代で軍資金を使って勝負する
- 50代で事業を完成させる
- 60代で事業を継承させる
その計画に従って事業家の道へと邁進していくことになりますが、 そのための資本金をまず集めなくてはなりませんでした。 しかし、アルバイトでお金を貯めるのは時間が掛かりすぎると考えた孫は「何か発明を行うしかない」と思い、 「事業になりそうなアイディアを毎日考える」ことを自分に課すことにしました。 その甲斐あって1年で250ものアイディアを捻出することができたといいます。 カリフォルニア大学でコンピュータと出会ったことで事業アイディアのひとつを現実化することになります。 それはポケットコンピュータを使った翻訳ソフトで、ローマ字で打ち込まれた日本語を翻訳して、 翻訳結果を画面に表示したり音声で出力したりできるという、今日、電子手帳と呼ばれるものの原型でした。 孫は日本に一時帰国した際にそれを松下電器へ売り込みに行きました。しかし、うまくいきませんでした。 諦めずシャープに売り込みに行き、専務だった佐々木正と出会い、見事に特許を取得する契約に結びつけました。 この翻訳コンピュータは後に「ザウルス」と呼ばれるようになっていきます。 この契約で得た1億円を元手にユニソンワールド社を設立、 ソフトウェアを開発して日本のメーカーへ販売を行っていくようになります。
孫はその卓越した先見の明を持ち、日本で起きているインベーダーブームが半年程度で終わることを見抜いていました。
「日本人は熱しやすく冷めやすい」と思っていたからです。
実際にはインベーダーブームは半ば人為的に終わったようなものではありましたが、
孫の予想は的中することとなり、インベーダーブームは終了、
スペースインベーダーの筐体はあっという間に値崩れを起こしていくことになります。
筐体は最盛期には100万円もするほどのものもあったそうですが、
ブームが終わると5万円という安値で取引できるほど暴落していったのです。
孫はこれに目をつけ、スペースインベーダーを筐体ごと安く買い取ってアメリカへ輸入しました。
それは「日本でのブームが終わった」というだけで、まだアメリカでブームになっていないという経済時差があることを知っていたからです。
このようにして買い叩いたスペースインベーダーを輸入し、
レストランやカフェなどにリースしてその収益を稼いでいくというビジネスを行いました。
半年で300台ほど輸入してさらに1億円の資金を増やすことに成功したのです。
この成功の後、孫は会社を興した仲間に会社を売却し、帰国して日本ソフトバンク社を設立することになるのでした。
ポスト・インベーダーを掲げて先陣を切ったのが「ギャラクシアン」(1979, ナムコ)です。 スペースインベーダーでは敵が左右に歩き、画面端まで歩き終わると1段降りてくるという直線的な動きだったのに対し、 ギャラクシアンは曲線を主体にした綺麗な動きを見せることが特徴で、 各キャラクタが個別に、意思を持ったかのように攻撃をしてきます。 それぞれのキャラクタには「性格付け」がなされており、 ブルーエイリアンはプレイヤーに次々と攻撃を仕掛けてくるように行動し、 レッドエイリアンはボスエイリアンが出撃するときに盾となって行動するようになっています。 更に敵キャラクタの数が減ってくると総攻撃を仕掛けてくるなど、より戦略的なゲームになりました。 またキャラクタがカラーで鮮明だったこと、 背景には煌く星が描かれる(*1)などもあって人気となり、 プレイヤーにゲームの新しい可能性を見せてくれました。 それまで「インベーダーの類似品」と呼ばれていたものが多かったのですが、 ギャラクシアンが発売された以降は「ギャラクシアンの類似品」というように呼ばれるようになったことからも、 いかにゲームの完成度が高かったのかをうかがわせます。 これは中村雅哉社長がスペースインベーダーの大ヒットにおいてもコピーを作ることを許さず、 「とにかくオリジナルを作れ」という指令を出し、オリジナリティ溢れるゲームの開発に注力した結果でした。
皮肉なことにタイトーはこのギャラクシアンブームにすっかり乗り遅れてしまいました。 タイトーはスペースインベーダーを作るための基盤を大量に輸入していましたが、 急速に終わったインベーダーブームの煽りを受けて大量の在庫基盤を抱えることになったからです。 タイトーは新しい基盤の開発を既に終えていたのですが、この大量の不良在庫を何とかすることに時間がかかってしまったのです。 消化するのに2年ほどの期間を要したと言われ、それまで新しい基盤を全く投入することをしなかったそうです。 西角友宏はその不良在庫となった基盤を使って20種類ものゲームを作成したそうですが、あまり人気が出ませんでした。 技術的にはタイトーのほうがノウハウがあったと思うのですが、 タイトーが在庫消化で使っていたゲーム基盤には 「スプライト」(*2)というキャラクタを専門で表示するためのハードウェア機能がついていなかったため、 表示能力でどうしても差が出てしまい、ゲームの表現力が段違いになっていたのです。 また、同じ基盤を利用していることもあって、新しいゲームのいずれもスペースインベーダーと同じような音しか出せなかったことも原因でしょう。 当時を振り返るプレイヤー達は 「タイトー直営のゲームセンターに入るとスペースインベーダーと代わり映えしない同じ音がそこらじゅうから響いていた」との言葉を残しています。 残念ながらタイトーは新鋭メーカーの後塵を拝することになってしまいました。 「ここでもし、新しい基盤を投入していたらタイトーは負けなかった。」と西角友宏は当時を振り返ったインタビュー内容を残しています。
こうして、スペースインベーダーが切り開いた日本のゲーム市場は、 ギャラクシアンに引っ張られ、その姿を変えていくことになったのでした。
*2 「スプライト」は日本での通り名で元々は「オブジェクト」と呼ばれる。 早期からATARIと交流があったナムコではオブジェクトと呼んでいたため、 黎明期にはスプライトと呼ぶかオブジェクトで呼ぶかでナムコ社員かどうかを見分ける技があったとか。
ポスト・スペースインベーダーの先駆的ゲームとして開発されたギャラクシアンは、 海外においても非常に人気が出ていました。 1980年にイギリスで開催されたATEショーではギャラクシアンなどのヒット作品と並べて、 それらのコピー品がたくさん出品されるという事態になりました。 この頃のテレビゲームの著作権というのはまだまだ確立しているとは言い難かったことを象徴するショーだと言えるでしょう。 ナムコはギャラクシアンの許諾を行う際には 「名前はオリジナルと同じにする」 「テーブル型筐体の発売に限定する」 「販売は国内においてのみ可」という厳しい条件を設定しました。 アメリカではMidway社が製造許諾を受け1980年2月から発売開始しました。 しかし、ナムコの思惑と反してギャラクシアンはコピー品や違法輸出が行われて数多く出回っていくことになりました。
コピー品に悩まされたMidway社は1980年6月頃に無断コピー品を排除するというキャンペーンを開始することにしました。 キャぺーン開始から1ヵ月ほどで浮き上がってきたターゲットは、 ユニバーサル社の作成したコピー品「コスミックエイリアン」(1980, ユニバーサル)です。 Midway社はこれを著作権侵害を理由に連邦地裁へ訴えています。 半年後の12月には和解しましたが、キャンペーンはこのように実行を伴って行われて行きました。 Midway社は不正に対する具体的な行動を積極的にこなし、 アメリカ国際貿易委員会にギャラクシアンを不正輸入をしている業者を調査して欲しいと申請を行ったこともありました。 このときの調査では19社が調査の対象となり、うち日系の業者が7社あったそうです。 調査の結果として著作権侵害となるということが認められることとなり、 1981年2月までにアメリカ国際貿易委員会からギャラクシアンのコピー品を輸入することも禁じられるまでに至りました。 またギャラクシアンにはその動作を高速化するための「ギャラクシアンスピードキット」がアーチック社から発売されたこともありましたが、 連邦地裁は原作を改変するもので著作権侵害に当たるという判決を下したこともありました。
スペースインベーダーのコピー品に対するタイトーの活躍、
このようなMidway社の活躍などが行われることで徐々にゲームに対する著作権の意識が高まっていきます。
1980年代に入ると、シューティングゲームは大きな転換期を迎えます。
日本ではギャラクシアンの登場に続き、日本物産社からは「ムーンクレスタ」(1980, 日本物産)が発売されて人気となりました。
それまでは同じ面が延々と繰り返されるだけだったゲームが
「面ごとに違う種類の敵が攻撃をしてくる」「敵が分離、あるいは変形する」というものに変化していくようになっていきます。
しかし、当時のコンピュータのスペックでは豊富な敵を用意するにも限界があるため、
数種類の敵が攻撃してきた後には自機が脱出して一巡し、
再び最初の敵が攻撃を仕掛けてくるというループゲームとなっています。
それから、ムーンクレスタ独自のものとして「敵の動きに緩急があり、よりトリッキーに動く」
「敵が奥行き方向に移動をする(当たり判定は残ったまま)」という部分があった点も見逃してはいけません。
ムーンクレスタが当時エポックだった点は、 敵の種類が面ごとに変化する点だけではなく、 それらの敵達に対応するために「自機が合体することでパワーアップする」という概念が持ち込まれたところにあります。 ドッキングシーンを成功させ、期待を合体させることで戦況を有利に持っていくことができます。 つまりプレイヤーがある程度の戦況をコントロールすることができるようになったのです。 ムーンクレスタはそれまでのゲームのようにプレイヤーの持ち機が3機ありますが、 それぞれが異なる機体となっており、 これらが「合体する」ことで複合的な攻撃を行い、 より強い攻撃を行うことができるようになるのです。
この「合体する」というギミックを面白いものにしているのは各機体が非常に個性的な設計をされているためで、 1号機は機体が小さくショットも1発で従来のゲームと同じ設計となっていますが、 2号機は機体がやや大きくショットが2連装であり、かなりの強さを誇ります。 では3号機は2号機よりももっと強いのかというとそうではなく、 ショットは2連装であるものの、機体が大きすぎてショットの撃ち出し位置が離れており、 敵がショットの間を抜けやすいというデメリットが用意されています。 つまり「各機体の弱点を補うためにいかに合体を成功させるか」という、 このゲームにおいて非常に重要となるファクターを前面に押し出すようなデザインが行われているのです。 また、合体すると各機体のショットを1号機 → 2号機 → 3号機と順番に連射できるようになるのですが、 各機体のメリット・デメリットが生かされ、急激に強い攻撃を行えないようになっている点は評価されても良いところだと思います。
それから、ムーンクレスタでは敵が出現したときの音、飛来したときの音、 それから破壊した際の音がそれぞれの敵ごとに用意されるようになりました。 そのため、SEのバリエーションが深まり、 ゲームにもより深みを与えることになりました。 ギャラクシアンはインベーダーよりも視覚的に進化したと考えるならば、 ムーンクレスタはギャラクシアンの一歩先に進み、 聴覚的にも進化した初めてのゲームということができるでしょう。
同じ時期、アメリカではATARI社が自社の発売したコンシューマ機「ATARI2600」(1977, ATARI)へ移植した 「スペースインベーダー」(1980, ATARI)がブームとなっている一方で、 ひとりの天才によりベクタスキャン方式のゲームが開発され、まったく別の道を歩んでいたのでした。
それまでのビデオゲームは水平に走る走査線を使って画面の描画を行う
「ラスタスキャン」と呼ばれる方式のTVモニタがメインで利用されてきました。
ラスタスキャンのモニタは点の情報を色の情報で持ちますが、
「ベクタスキャン」はまたの名を「X-Yモニタ」と呼ばれる通り
「X座標」「Y座標」という情報を元に点座標の情報を使って綺麗な線を引くためのモニタです。
アーケードゲームを除けば、 そのベクタスキャン方式を利用したSpace War!は存在していることが確認されています。 1970年代にDEC社が発売したコンピュータ「PDP-11」では、 その廉価版である「PDP-11/05」と呼ばれるものが作成されましたが、 更にその機種の特殊版と呼ばれる「GT40」というコンピュータが存在していました。 このGT40がベクタスキャンモニタを利用している機種なのです。 今では一般的となったブラウン管型のラスタスキャンモニタに比べて ある意味において特殊な機種と見えるGT40ではありまsが、 Space War!は元々がPDP-1に接続されたオシロスコープをディスプレイにするように開発されたものでもあるので、 ハッカー達はむしろ先祖返りを喜んでプログラムをしたかもしれません。 ベクタスキャン方式のゲームが出てきたのは1970年代末になってからですが、 これは枯れた技術を使って良いものを作ろうという思想があったのかもしれません。
この1970年代末にあえてベクタスキャン方式のモニタを利用してゲームを作成したのはラリー・ローゼンタールで、 Space War!の開発社であるスティーブ・ラッセルと同じマサチューセッツ工科大学の学生です。 ラリー・ローゼンタールは学生時代に先輩にあたるスティーブ・ラッセルが作成したSpace War!に熱狂し、 とうとう自らTTL(Transistor Transistor Logic)ベースの基盤「Vector Beam」を作りって、 その大好きだったSpace War!をアーケード向けにアレンジして開発することにしたというわけです。
ラリー・ローゼンタールは完成したそのプロトタイプをあちこちのゲーム企業に売り込みに行きました。 しかし、「著作権料」と称して「売上の取り分を5:5にすること」を条件にしていたため、 なかなか取り合ってくれる企業はありませんでした。 ところがCinematronics社だけがそのバカげた条件を承諾し、開発を「Space Wars」というゲームを完成させたのでした。 なぜcinematronics社がこの話に乗ってきたのか、 それは、ATARI社のPongの影響を受けてゲーム企業を立ち上げたものの、 この頃には経営が行き詰っていたためでした。
Space WarsはComputer Spaceに比べて画面が綺麗であった(*1)こと、 難易度選択が可能であること、 それから全米で大ブームとなった「Star Wars」(1977, アメリカ)の影響でSFに思いを馳せる人が多かったことも手伝って、 中規模なヒット商品となりました。このことで危機にあったCinematronics社を救うことに繋がります。 しかし、取り分が折半であったこと、「Vector Beam基盤を今後も利用するなら使用料を払え」 とラリー・ローゼンタールが要求してくることもあり、折角持ち直したはずの経営はまだまだ順風満帆に行くことはありませんでした。 更にベクタスキャンモニタについての特許はラリー・ローゼンタールが持っており、 その使用料を支払う必要もありました。 果てにはラリー・ローゼンタール自身が「Vector Beam」という会社を興し、 Space Warsと全く同一内容の「Space War」(1978, Vector Beam)を作成したり、 なかなか使用料を払わないCinematronics社に対して妨害工作を行ってくるようになってしまうようになってしまいました。 Cinematronics社では新しい技術者を雇ってベクタスキャン方式のゲームを作成しているのに、 このままではどうにもならなくなってしまうと判断し、 ラリー・ローゼンタールに100万ドルほどの金銭を支払い、 Vector Beam社の持つすべての財産・権利を購入することで決着をつけました。
ラリー・ローゼンタールはこの事件以降、アーケードゲーム業界からは姿を消したそうですが、 彼が作ったSpace Warsのヒットは功績が大きく、 このヒットを契機にベクタスキャン方式のゲームは1980年代中頃まで作成され続けることになっていきます。 それはラスタスキャン方式のゲームより大きなキャラクタを簡単に表示できること、 それから後期にはカラー表示の行えるものが出現するようになったからでした。
1970年代末にATARI社がATARI 2600というコンシューマ機を発売した翌年、 日本ではスペースインベーダーの大ヒットがあったのですが、 このインベーダーブームは海外にも飛び火しました。 同時に新たなゲーム市場を開拓することになっていきます。
ATARI社はこの日米で爆発的な人気を誇ったスペース・インベーダーをATARI 2600へ移植し、 「Space Invader」(1980/1, ATARI)として売り出し、 アーケードに劣らない大ヒットを収めました。 ATARI 2600は長年の低迷を続けていましたが、 このスペース・インベーダーのヒットを機に「商業的にはじめて成功したコンシューマ機」として認知されるようになりました。 このヒットが引き金となりATARI 2600は最終的に全米で約30%のシェアを獲得するまでに至り、 コンシューマ機に携わることがビジネスとして成り立つと判断されることに繋がり、 この年を境に幾つかのコンシューマ機が開発されることになっていきます。
それまでのコンシューマ機のほとんどは、 Pongゲーム機のように予めゲーム本体へ組み込まれたゲームが遊べるだけのものでした。 1976年には世界初のカードリッジ式ゲーム機「Channel F」(1976/8, Fair Child)がFair Child社より発売され、 以降は徐々にカードリッジ式のものも発売されて行くようになるのですが、 やはり依然として前者のタイプのものが多く発売されていました。 ところが、このATARI 2600の成功によって 「ハードウェアが市場をシェアできれば、カードリッジの供給だけでも莫大な利益を得ることができる」ということが証明されると、 各社は既に莫大なシェアを誇っていたATARI 2600のカードリッジを発売するだけでなく、 色々なカードリッジ式のコンシューマ機のハードウェアを発売しようとするのは自然な流れと言えるでしょう。 これは現代においても行われているハードウェアのシェア合戦を見れば改めて説明するまでもないことだと思います。
アメリカで爆発的な人気を誇ったATARI 2600の成功を機に、 ATARI社は日本支社を設立し、後継機に当たる「ATARI 2800」(1983/5, ATARI)を引っさげ日本進出を果たします。 約2,500万台もの普及がされたこのハードウェアは、 大量のゲームカードリッジとノウハウを蓄積していたでしょうから、 日本での普及も時間の問題だったと思われていたでしょう。 ところがその2ヶ月後に発売された「ファミリーコンピュータ」(1983/7, 任天堂)に圧倒的な差をつけられ敗北を喫します。 なぜなら、日本の子供が遊びたかったのは当時の日本のゲームセンターで遊べるゲームだからです。
ファミリーコンピュータは同社のアーケードゲームを遊ぶことができるだけでなく、 アーケードゲームのクオリティを持ったゲームを家庭で遊べるようにするという目的を持って1981年より開発されました。 そのためグラフィック性能は当時の中でも群を抜いていますし、 スプライト機能、BGグラフィック機能などゲームを開発していく上で必要な機能がほぼ盛り込まれていました。 また、価格も同年に発売されているコンシューマ機に比べて平均して10,000円ほど安かったこと、 カードリッジ自体も3,800円と安かったことが人気の秘訣と言われています。 しかし、一番の秘訣はやはりアーケードゲームで人気だった「ドンキーコング」(1981/7, 池上通信機)、 「ドンキーコング Jr.」(1982, 任天堂)が本体の発売と同時に移植されたことや、 2ヵ月後の9月9日にはアーケードゲームで発売したばかりだった 「マリオブラザーズ」(1983, 任天堂)が移植されて遊べるようになったことだという点は疑いようもない事実でしょう。
それでもファミリーコンピュータが発売されてしばらくは、 それまでのメジャータイトルだった「きこりの与作」(1981/7, エポック)などが遊べる 「カセットビジョン」(1981/7, エポック)などのコンシューマ機とそれほど人気は変わらなかったものだと推測されます。 しかし、ファミコンはその設計思想の通りに「ゼビウス」(1984/11, ナムコ)、「マッピー」(1984/11, ナムコ)、「ドルアーガの塔」(1985/8, ナムコ)、 「グラディウス」(1986/4, コナミ)など、アーケードからの人気タイトルが発売され続けたこと、 同時に「エキサイトバイク」(1984/11, 任天堂)、「スーパーマリオブラザーズ」(1985/9, 任天堂)、 「ドラゴンクエスト」(1986/5, エニックス)、「ファイナルファンタジー」(1987/12, スクウェア)などの良質なオリジナルソフトの出現が続いたことが、 結果的に爆発的な普及をもたらすことになっていったと考えられます。
日本で圧倒的な人気を誇ったファミリーコンピュータはATARI社を撤退させただけでなく逆に海外へ進出し、
ビデオゲーム市場が縮小傾向にあったアメリカのゲーム市場を再び活性化させる起爆剤になったというのは、
ある意味においてとても皮肉なものだと言えるかもしれません。
そのような時代から生まれたカードリッジ式のゲーム機でひと際目を引くコンシューマ機が存在します。 それはGeneral Consumer Electoronics社の発売した「Vectrex(*1)」(1982/11, GCE)です。 このVectrexは9インチのXYモニタを搭載しているため、ベクタスキャンのゲームが遊べる唯一のコンシューマ機となっていて、 アーケードゲームで利用されるようなタイプのジョイスティックが付属しているという本格的なものでした。 また、そのスタイリッシュなデザインは2年後に発売される「Macintosh」(1984/1, Apple Computer)へ影響を与えたと考える人もいます。
このVectrexではシューティングゲームの祖である「Space War!」自体を遊ぶことができませんが、
Asteroidの直系であるMine Stormが本体に組み込まれ、カセットを挿さない状態で遊ぶことができるようになっています。
Mine Stormの操作方法も多分に漏れずSpace War!直系の操作方法が採用されており、
レバーで自機の旋回、ボタンでそれぞれショット、加速、ワープを行うことができるようになっています。
1970年代後期のアーケードゲームから振り返ってみると、 ラスタスキャンのゲームだけではなくベクタスキャンのゲームも数多く開発されています。 当時の技術としてはベクタスキャンのゲームのほうがハードウェアも安価で開発できたということもありますが、 アイディア次第ではラスタスキャンのゲームよりも豊かな表現を可能にすることができたというのもその理由だと考えられます。 例えばラスタスキャンのゲームでキャラクタを拡大しながら表示していくのはこの時代のハードウェアではとても大変でしたが、 ベクタスキャンを利用しているのであれば光点を計算しなおすだけで、 大きなキャラクタの表示はハードウェアが高速に行ってくれるためにこの時代でも表現が可能でした。 実際、Mine Stormでは敵母船が手前から奥方向に向かって縮小していきながら機雷を撒いていくような描画からシーンがスタートしています。 そのような背景もあり表現力ではラスタスキャンにも劣らないとされていた1980年代前半まではベクタスキャンのゲームを多く見かけることができました。
Vectrexはそんな時代を象徴するようなコンシューマ機であり、 今なおコアなユーザ達の間で遊ばれています。 もしこのVectrexでSpace War!が遊べたら、それはとても素敵なことなのかもしれません。
初期のVectrexはCinematrnics社で開発されたベクタスキャンのゲームが多く移植され人気を博していくことになるのですが、 残念ながらゲーム機本体の値段は54,800円と高く、とても子供達の手に負える代物ではありませんでした。 ですから、日本では駄菓子屋よりはおもちゃ屋の片隅にレンタル設置されることが多かったようで、 おもちゃ屋の店頭でコイン片手に並んで遊ぶ子供達の姿をよく見かけることがありました。
今見てきたようにベクタスキャン基盤はアーケード業界だけでなく、少し未来に訪れるコンシューマ業界へも新しい風を吹き込んでいくことになります。 それまでのゲームは表現能力にはかなりの限界があり、 大きなキャラクタを滑らかな線で描画することなどは夢のようなできごとだったのですから。 ディスプレイに描画されるラインの色は白一色でしたが、 ラスタスキャンのゲームでも未だカラーで描画されることは少なかった時代ですから、 表現力が高いベクタスキャンのゲームはラスタスキャンのゲームに負けず劣らずな人気であり続けました。
ベクタスキャンのゲームはワイヤフレームで物体を描画することで少ないライン数でも立体的な表現することが簡単にできますが、 それを積極的に取り込んで開発されたものが「Star Hawk」(1977, Cinematronics)です。 このゲームは当時アメリカで爆発的な人気となった映画「Star Wars」(1977, アメリカ)に多大な影響を受けて作成されたスペース・シューティングゲームです。 画面の奥から拡大されながら表示される敵機を照準を合わせ、次々と撃墜していくという単純な操作のゲームでしたが、 当時のラスタスキャンゲームでは難しいとされていた背景スクロールなど、 スピード感をうまく表現した地表の演出として描画されています。
少ない線で色々なものが表現できることが判ると、 新しい表現の模索が始まっていことになっていきます。 ベクタスキャンのモニタに図形を描画をするためには、 線の両端となる座標位置だけをデータとして持っていれば済むため、 キャラクタの描画データで大量にメモリを消費してしまうラスタスキャンのゲームに比べて、 少ないメモリ量で複雑な図形を描画させることができるのです。
その中でもATARIはSpace War!を進化させたゲーム「Asteroids」(1979, ATARI)だけではなく、 既に同社で定番の表現となっていたサイドビューにおける地形表現を更に複雑、緻密に描画できるようにゲームを設計し、 背景が自由スクロールする月面着陸ゲーム「Lunar Lander」(1979, ATARI)を完成させました。
このゲームは慣性飛行する宇宙船を操作し、月面に記されたエネルギー補給箇所へ無事に着陸させていくことで点数を競います。
宇宙船がある程度以上のスピードで地表へ接触してしまうと宇宙船が損傷してしまい、大きなミスとなってしまうため、
着陸にはとても気を使います。
写真では自機がモニタの中では非常に小さく、遊びづらそうな印象を受けるのですが、
そこはATARIの妙と言いますか、
月面に宇宙船が近付くと宇宙船付近の背景が拡大され、微調整が行いやすくなっているのです。
この拡大もベクタスキャンのゲームならではの表現です。
また同時にゲーム性を高めている演出でもあり、
ATARIのセンスの良さを感じさせます。
そういう細かいところまで行きとどいたバランス調整されているため、
とてもスリリングなゲームに仕上がっており、
1980年代に入ってもしばらくはコンピュータゲームの顔として様々なパソコンへと移植がされ遊ばれることになりました。
このように新しい表現が訪れるようになるとゲームは多様化に向かって動き出します。 ベクタスキャンで表現されるようになった地形をラスタスキャンで再現することができるか、 そういう試みがWilliams Electronics社で行われるようになりました。 その試みを行ったのがユージン・ジャービス、 元ATARI社のピンボールプログラマです。 彼がWilliams Electronics社に向けたピンボールをChicago社で作成していた1970年代後半、 全世界に衝撃を与えたゲーム、スペース・インベーダーが発売されました。 これを見たユージン・ジャービスはマイクロプロセッサを使ったピンボールのプログラミング技術を生かし、 ビデオゲームを作成したいという非常に強い欲求に駆られました。 そこで彼はピンボールで有名なゲームデザイナーであるスティーブ・リッチーとゲームのコンセプトをまとめます。
丁度その頃、Williams Electronicsはビデオゲームマーケットを視野に入れた開発を始めるタイミングにありました。 ビデオゲーム開発プロジェクトを起こすこととなったユージン・ジャービスは 与えられたMotorola社のコンピュータ「Exorcisor」を使い、 まとめ上げたコンセプト「プレイヤーが惑星の地表を飛び交う」を基に、 スクロールタイプのゲームのプログラムを行っていきます。 まず彼が行ったのがスクロールする惑星の地表を画面上に表現することでした。 それができるようになると今度はヒューマノイドを地上に配置して歩き回れるようにしました。 更に一晩明けてからはエイリアン(後に正式名称が「ランダー」となる)が地表を飛び交うようにプログラムを行っていきます。 そして、このエイリアンが地上のヒューマノイドを捕え、体内へ取り込んでミュータントへ変化するようにしました。 こうして「Defender」(1980/12, Williams Electronics)の原型がひとまず形になりました。
しかし、このゲームは非常に難易度が低く、すぐに飽きられると判断したユージン・ジャービスは、 「バイター」と呼ばれる一定時間で出現するキャラクタを作成、 プレイヤーがレベルをクリアするようにプレッシャーを与え続けるようにプログラムを行い、 更にいくつかのキャラクタを追加しました。 こうして完成した世界初の任意横スクロールシューティングゲーム「Defender」は、 1980年10月にアメリカのシカゴで開催されたAMOAトレード・ショーにて発表され、 ゲーム・オブ・イヤーを受賞し、その面白いゲーム性から発売直後から空前のヒットとなりました。
Defenderはスペース・インベーダーがきっかけで作成されるに至りましたが、
操作は当時大ヒットに至ったムSpace Wars!から受け継いだものでした。
これはユージン・ジャービスがバークレー大学で遊んだ黎明期のゲーム、
Space War!の印象が非常に強かったことを想像させます。
違う点を挙げれば自機の方向転換を行うためのボタンが追加されたことで、
このボタンを押すことで地表を右から左、左から右へ自機が飛んでいくことができるようになっています。
アメリカでベクタスキャンゲームが進化を遂げる一方で、 日本では収束したインベーダーバブルのために、 スペースインベーダーの模倣ゲームばかりではなく、 アイディアの多様化が進んでいくことになります。 ただ、ゲーム業界自体がまだ黎明期を抜けきらず、 成熟に向かうにはまだ少し掛かろうか、という時代ですから、 突出したアイディアというにはまだまだ遠かったことは想像に難くはないでしょう。
そんな中、盛んに見られるのがディープスキャン系を発展させた海戦ゲームでした。 ディープスキャンはそれまでに存在したSea Wolfなどのゲームから着想を得たと言われるゲームで、 水面に浮かぶ敵を自機に置き換えて水面下の敵を破壊するゲームに仕上げました。 日本で見られたのはそれを先祖返りさせたようなゲームで、 水面下に沈む自機が海上、あるいは海中から押し寄せる敵を撃墜していくタイプのゲームでした。
そんな中でも任天堂レジャーシステムの開発したゲーム「ヘリファイア」(1980, 任天堂レジャーシステム)は、 簡単な背景ではありますが、左から右への背景を横スクロールさせるゲームとして突出していました。 操作は8方向レバーにショットを打つボタン1つという非常にシンプルなものでしたが、 敵が編隊を構成し、海上からトリッキーな攻撃を行ってくるというものでした。 敵編隊は8機ほどで構成されており、残数が減ってくると動きが速くなるというインベーダーテイストが残っていました。 1980年における日本では、ゲームと言えばまだスペースインベーダーか、 ギャラクシアンか、という背景がありましたから、無理もありません。
同じ年、セガはこのゲームを発展させ、
より現代的なゲーム「N-サブ」(1980, セガ)へ進化させました。
ヘリファイアでも横から敵ミサイルなどが来ることがありましたが、
これを敵潜水艦へと進化させて、よりスリリングなゲームとして仕上げました。
この敵潜水艦はプレイヤーに対して攻撃をしてくるため、
当時としては高難易度な部類に入るゲームとなっています。
そこで今までのゲームのように1ボタンで攻撃をしているだけでは対処しきれなくなっていることについてセガは2ボタン式を採用。
一方のボタンで海上の敵を攻撃するように上方向にショットを放つようにし、
もう一方のボタンで真横にショットを放って水中の敵に対応できるよう、攻撃を撃ち分けられるようにいました。
更にレバーを左右方向に入れると自機が左右に向きなおり、正面方向に水中の敵を攻撃を加える、という要素を加え、
実質、左右と上方向の3方向に攻撃を加えられるようにしたのです。
Defenderが発表された1980年10月のAMOAトレード・ショーにはコナミの上月景正が赴いていました。 大盛況だったWilliams Electronics社のブースに立ち寄り、Defenderを見て立ち尽くしたそうです。 ゲームの操作は相変わらずSpace War!から変化していませんでしたが、 スクロールする地形、長いレーザー、派手な色遣い、サイバーな音声などに大きな衝撃を受けたのでしょう。 このDefenderの持つ新しいアイディアを元に、 当時の提携企業Stern社が発売していたSpace War!系のゲーム「Moon War」(1980, Stern)のアイディアである、 Fuel制、強制スクロールや、既に日本で発売されていた「アストロファイター」(1979, データイースト)の面表示方法などを参考に、 日本流Defenderとも言うべき「スクランブル」(1981/1, コナミ工業)の開発を行います。
スクランブルは8方向レバーに2ボタンという操作で自機を操作し、 強制的にスクロールする地形をかわしながら、画面上に現れる敵機を破壊していくという現代の横スクロールゲームの礎を築いたゲームです。 カラフルな画面や地形はDefenderから影響を受けたことは見て取れるのですが、 スクランブルがヒットした要因は6シーンに分かれたステージがシームレスに切り替わることが一番大きな点でしょう。 めまぐるしく変化する色とりどりのステージはアイディアに富み、 次々と新しいプレイヤーを虜にしていきました。
そして、1ステージを超えれば、そのステージからやり直せるという現代の「戻り復活」の原点が組み込まれている点も見逃してはなりません。 プレイヤーは燃料を補給しながらステージを渡って行かなければなりませんが、 燃料ギリギリでも、敵から逃げ回ったりしてでもいいから、 何とか次のステージに辿り着けば、やられた後には燃料が満タンの状態で新しいステージに挑戦をすることができるわけです。 ですから、プレイヤーは必死に次のステージに辿り着くことに意欲を燃やすことができたというわけです。 ゲーム史的には強制横スクロールや2ボタンの撃ち分けばかりが取り沙汰されますが、 それらは少し前から存在していたアイディアであることは既に述べた通りで、 スクランブルは新しい形で「ゲームの流れ」を提供したことが一番のエポックだったと言えるでしょう。
上月はまた、イギリスのロンドンで1981年1月に開催されたATEサミットへも赴きました。
相変わらずWilliams Electronics社のブースは大盛況でしたが、
コナミ工業が作成したスクランブルも披露されており注目を集めました。
Defenderのブームも手伝ってヨーロッパでの受けは非常によく、
スクランブルを発売したいと申し出てくるゲーム会社の対応に追われたといいます。
この1件もあり、日本国内での発売より先に海外への発売が先に行われることになった異例の作品です。
圧倒的な人気ゲームとなった「スクランブル」(1981/3, コナミ)はすぐさまパソコンへ移植されました。 この移植を行った中村光一は、ゲームにどっぷりとはまり、スペースインベーダーはほとんど終わらないくらいの腕前だったといいます。 ある日、18万5000点ほどまでスコアを伸ばしていたら、店主から「閉店だから帰ってくれ」と言われたことがあるそうです。 高校へ進学するとパソコンで動く「平安京エイリアン」(1979/11, 電機音響)に似たゲームを使ったデモを発見。 「これなら毎日タダでゲームができる」と思って数学同好会へ入会、プログラムを勉強しはじめました。 「部」ではない同好会にパソコンがあったのはなぜでしょうか。 それは日本の経済成長期に文部省が全国の学校へパソコンを配ったものが授業で利用されていたのですが、 授業で利用されなくなったものをこの同好会が譲り受けたからでした。 中村はそのパソコンを使って1ヶ月ほどで基礎をマスターし、 BASICを使って「ギャラクシーウォーズ」(1979/8, ユニバーサル)を移植しました。 自分のパソコンを持っていなかった中村は、学校で禁止されていたアルバイトをしてお金を貯めてPC-8001を購入します。 最初の目的は芸夢狂人の開発したゲームを遊びたいと思ったためです。 パソコンを購入した後、ゲームセンターのゲームを遊び倒し、 アルゴリズムをつぶさに観察しながらキャラクタなどの動きを盗んでいきました。 そしてそれをパソコンで再現する、ということを繰り返してゲーム開発のノウハウを吸収していったのでした。
メキメキと技術を身につけて行った中村はプログラムを作成して行く上で必ず目標を掲げることにしました。 最初のゲームでは「マシン語でプログラムできる技術を身につける」ということを目標にしました。 なぜならパソコンの性能はそれほど高くないため、 背景のスクロールやキャラクタの重ね合わせなど高度な処理を同時に行わせるために、 どうしてもマシン語を使ってCPUやメモリなどをダイレクトに操作する必要があったからです。 そのような目的を持って「スペースパニック」(1980/12, ユニバーサル)をパソコンへ移植し、「エイリアン パート2」を作成しました。 中村はこのプログラムを工学社が発行していた雑誌「I/O」へ投稿、見事に誌面へ掲載され、 さらにカセットテープメディアでも発売されました。 その売り上げの中から印税が支払われ、高校生にして20万円ほど手に入れることができました。 次のゲームで掲げた目標は「横スクロールを行う」ことでした。 そのために移植する題材として選んだのが前述したスクランブルです。 当時、背景のスクロールという技術はまだ確立されたばかりのものでしたが、 スクランブルでは自機がやられてしまうと背景が一定のポイントまで戻るため、 しっかりプログラム内部で管理しなければなりません。 これをプログラムでしっかり再現することを主眼としたのです。 このような目的を持って作成されたスクランブルは移植度が高く、 非常に人気ゲームとなったといいます。 スクランブルで得られた印税は100万を超え、そのお陰で高校2年生にして確定申告を行うハメになった、という逸話を作りました。 3作目のゲームでは「縦スクロールを行う」という目標を掲げます。 PC-8001では4ドットごとに縦スクロールさせることはそれほど難しくないため、 中村はこれを最低でも2ドット単位で動かしたいと思っていたのです。 そこで思いついたのが「縦に2ドットずつずれている画面をふたつ用意して交互に表示させる」という方法を採用、 最終的な出力で2ドットでスクロールさせているかのように見せるテクニックでした。 このテクニックを利用して作成されたのが「リバーパトロール」(1981/7, オルカ/GGI)です。
そのようにして作成していったプログラムはことごとくパッケージ化されていきました。 得られた印税を使いPC-8801をキャッシュで購入し、更にプログラムの技術を磨いていったのですが、 近所にできたNECのショップで最新機種のPC-9801が登場すると知ることになります。 既にお金を使ってしまっているために購入することはできなかったのですが、 そのときにそのショップの店長が「君ならこれで稼げばいいだろう」と言ってあるチラシをくれました。 それはエニックスが1982年9月20日から3ヶ月間の募集期間を設けて開催した 「第1回 ゲーム・ホビー・プログラムコンテスト」でした。 賞金総額は300万円、最優秀賞100万円という賞金が用意されており、 既に何作かゲームを作成して自信をつけていた中村は腕試しに参加してみることを決意しました。 中村は「ディグダグ」(1982/3, ナムコ)でまとめて潰すと高得点となる点数稼ぎをエッセンスとして取り入れた 「ドアドア」を作って応募することにしました。 しかし、本心ではディグダグをそのままコピーして送りつけたかったと思っていたといいます。 それくらいディグダグにハマっていたのでしょう。 ドアドアの開発期間は約1か月。 授業も上の空でノートを取ることもせず、自分のプログラムのことばかり考えて没頭して作成しました。 そのような短期間で開発されたドアドアではありましたが、 ゲームデザインは非常にしっかりしており、準優勝に当たる優秀プログラム賞を獲得することになりました。 ドアドアはパッケージ化されたソフトウェアとして店頭へ並び、その印税は1,000万円に上りました。 コンテストには「週刊少年ジャンプ」が取材に来ていたのですが、 このときに取材を行っていたのが後に盟友となる堀井雄二でした。 当時の堀井はフリーライターをしており、雑誌に連載を持っていました。 その連載に対して投稿される会員を管理するためにPC-6001を購入していました。 まだプログラムでデータを管理できるようなスプレッドシートもないような時代です。 そのパソコン購入がキッカケとなりパソコンゲームに熱中し、 自らもプログラムを組んだりするようになっていきました。 パソコンが使える人間ということで、集英社の鳥嶋和彦に命じられ、このコンテストを取材しに来ていたのです。 自らプログラムを組む堀井は実は「ラブマッチテニス」を仕上げて応募していたのですが、 なんとこれも「入選プログラム賞」へ入賞していたのです。後に堀井は「自らのゲームを自ら取材するハメになった」と語っています。
中村は当時を振り返り、
「パッケージされていたとしてもマニュアルなどはコピーしたような簡素なもので、これだったら自分にもできる」
と思っていたと語っています。
それはまだパソコン市場が黎明期だったためですが、
高校時代からソフトウェア会社を作ることを心の中に持っており、高校卒業後には早速それを実行に移しました。
東京の大学へ進学してゲーム開発を行うことにしたのです。
スクランブルなどで得られた資金を元手に、高校・大学時代のプログラミング仲間5人で「チュンソフト」を設立しました。
1984年、中村が19歳のときです。
翌年には堀井雄二と組んでファミコン版のドアドアを作成、20万本を売り上げます。
しかし、ファミコンは既にヒット作なら50万本ほど売り上げるほどの勢いがあったため、
中村はこれでは満足しませんでした。
次のゲームを何にするか考えたとき、
ファミコンでは性能の制約を受けて作成が難しいアドベンチャーゲームやRPGなどをやりたいと思いました。
ハードの制約を受けて他社ではやらないが、逆にそのようなニッチなジャンルで挑めば売れるからと踏んだからです。
中村は自分の考えをエニックスの千田幸信プロデューサーに相談しました。
千田は「ならばまず堀井がパソコンで作成した『ポートピア連続殺人事件』をやってみるのはどうだろうか。」と提案したのです。
堀井は「コマンド入力形式」であればファミコンでもアドベンチャーゲームができると踏んでおり、
そのようなプログラム的な部分まで含めた打ち合わせを重ねた行ったふたりは最終的に「できる」との結論に達し、
堀井がシナリオ、プログラムがチュンソフトという開発体制でわずか数ヶ月の間に完成させました。
発売されたこのゲームは最終的に70万本以上を売り上げ、チュンソフトへのロイヤリティ数千万単位となりました。
中村はここで初めて「ああ、事業になってきた」と実感したといいます。
このポートピア連続殺人の開発中にふたりがハマっていたゲームがありました。
それはエニックスの指示によりアメリカ派遣された「アップルフェスト」で知った「Wizardry」や「Ultime」です。
堀井はUltimaに、中村はWizardryにどっぷりハマり、
遊び倒しながらお互いにそれらのゲームの評価を話し合ったりしてRPGを作っていきたいよね、という話をしていたそうです。
それが後に日本で大ヒットをもたらし、社会的影響を与えたロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」です。
スクランブルの出現によって、それまでは固定された画面内で何とかバリエーションを持たせるのに精一杯だったゲーム達に、 「スクロール」という新しいフィーチャーを組み込むことでさらなる面白さを引き出せるということを知らしめました。 これが日本のゲームの姿を大きく変化させていくことになります。 同時に固定画面タイプのものも徐々にではありますが、 色々なアイディアが捻出されていき多様性を見せるようになっていきました。 そんな中、独自のゲームデザインと技術力でプレイヤーをアッと言わせたゲームを開発した会社がありました。 その会社の名前は池上通信機、任天堂よりプログラム開発を依頼された下請け会社でした。 池上通信機はギャラクシアンタイプのゲームである「レーダースコープ」(1980/2, 任天堂/池上通信機)を開発しました。 しかし、それまでのゲームとは異なり、ハーフトップビューを採用して立体的に敵が迫ってくるようにした点が斬新でした。 また、攻撃してくる敵が進行方向に対して飛ぶレーザーを放ってくる点、 敵数が減ってきたときに攻撃方法がプレイヤーにダメージを与える「爆弾」に変化するなど、 現代的なアイディアが盛り込まれました。
丁度その頃、任天堂はアメリカへの進出を考え始めていた時期でした。 ビデオゲーム6とビデオゲーム15の成功を受け、日本での市場では成功していましたが、 それを足がかりにしようとしたのです。 山内溥はアメリカへ進出するに当たって、英語の素養があり、また現地での経験が豊富な荒川實に目をつけました。 荒川は娘婿だったこともありますが、 荒川は当時、丸紅のエリートとしてアメリカで働いており、 手がけるプロジェクトで黒字を叩き出して会社に貢献していました。 その話を娘を経由して漏れ聞いていた山内は、事業を一任できる人物に相応しいと判断したのです。 1980年に娘夫婦が帰郷した際、山内は荒川を説得し、 荒川は父と確執のあった妻の陽子を説き伏せ、 任天堂オブアメリカの設立プロジェクトはこうして始まったのです。
任天堂オブアメリカが最初にやるべき仕事はアーケードゲーム市場への参入でした。 日本でもまだ完成したばかりのレーダースコープを現地で売り捌くのです。 販売前にロケテストを行った荒川はこのゲームが好評であったため、 このゲームを使って一気に業務拡大を目論見ました。 このとき、本社へ発注した台数は3,000台、任天堂オブアメリカの資本金をほとんど注ぎ込んだ格好です。 ゲームの輸送経路をどのように行うかと考えた荒川は、 空運は高かったため経費を削減することを理由に海運を指定しました。 しかし、この判断が間違いの元でした。 海運でアメリカに到着したレーダースコープが荒川の手元に辿り着いたのは発注をしてから約4ヶ月後のことで、 到着したときには既にレーダースコープは時代遅れのゲームとなっていたのでした。 当時のビデオゲームのライフサイクルは半年程度だったため、当然の結果とも言えるでしょう。
荒川は任天堂オブアメリカを設立した当初、 セールスを行ってもらう販売店として契約を行ったファーイースト・ビデオ社と協力し、 何とか1,000台ほどのレーダースコープを売り捌くことはできましたが、 それ以上は売れ残ってしまい、大量の不良在庫を抱えることになってしまいました。 資本金のほとんどすべてを投入したこの失敗により、 設立したばかりの会社は倒産の危機に陥ってしまいます。 荒川は不良在庫を何とかするためにROM交換用のゲームを企画するように本社へ連絡を入れましたが、 山内は「失敗するかもしれないものに人手を割けない」とし、 横井軍平が携帯ゲームハード「ゲーム&ウオッチ」のために企画していたポパイを題材にしたゲームをそのROM交換用のゲームに乗せることにしたのです。 しかし、ポパイの版権がうまく取れなかったため、デザイナーの宮本茂にキャラクタを描き直させたものとなりました。 それが今日「ドンキーコング」(1981/7, 任天堂/池上通信機)と呼ばれるゲームです。 ドンキーコングは宮本がゲームデザインを行い、 池上通信機がプログラムを業務委託され作成されたアクションゲームで、 コングにさらわれたレディをマリオが救い出す、というストーリーに沿って、 マリオが障害物などを避けながらレディの奪還をすれば1周クリアとなります。
ドンキーコングが任天堂オブアメリカへ納入されたとき、 社内ではゲーム名は失笑を買い、ゲーム内容はレーダースコープより酷いという評価が下されてしまいました。 荒川は山内に苦情を申し付けましたが、山内は取り合わなかったといいます。 仕方なしに居酒屋に設置してテストしてみると、売り上げは好評でした。 任天堂オブアメリカの社員達はこのゲームが人気になったことが腑に落ちず、 なかなか認めようとしませんでしたが、 任天堂オブアメリカが抱えた2,000台の不良在庫を一掃しただけではなく、 さらに数千台の単位で発注してもまだ売れるほどの人気を認めざるを得ませんでした。 累計6万台を売ったこのゲームのお陰で任天堂オブアメリカは倒産の危機から一転、 設立2年目にして1億ドルの売り上げを出すことになります。 そして同時に任天堂にデザイナーとして入社したものの、 ゲームセンターの飾りつけなどさせられていた窓際社員、宮本の才能が開花した瞬間(*1)でした。
そのような経緯を持った池上通信機が作成したスクランブルタイプのゲームは「ザクソン」(1982/2, 池上通信機)、 クォータービューと呼ばれる斜め上からの視点から見たグラフィック描かれた独特なシューティングゲームです。 ザクソンの操作は非常に難しく、4方向レバーの左右で自機を左右に移動させ、上下で自機の高度を調整するというものでした。 その操作のとっつき悪さから評価は決して良かったとは言えませんが、 海外ではコンシューマ機になり、日本に逆輸入されるなど、一部のプレイヤーからは人気を得ることができたことはレーダースコープとは非常に対照的な結果でした。 ほどなくしてザクソンはあっけなく攻略されることになってしまい、 同年末の11月にはステージと一部のフィーチャーを追加した高難度のザクソンである「スーパーザクソン」(1982/11, セガ)が発売されるに至りましたが、 このときには既に池上通信機はゲーム開発へ関わることはなくなっていったのでした。
Defenderで熱狂する海外では、同時期にヒットとなるゲームを生み出す新参企業が誕生します。 Williams Electrionics社の社長を退いたサム・スターンはアメリカ国内でのフリッパーピンボール解禁を見越してスターン社を興します。 社長には息子のゲアリー・スターンを就かせることにしました。 スターン社はいくつかのフリッパーを開発した後、拡大していくビデオゲーム業界に注目し、 コナミ工業の「カミカゼ」(1980/5, コナミ工業)をアメリカ国内で独占的に販売する権利を獲得することに成功します。 スターン社はこれを1980年8月に「アストロインベーダー」として発売しました。 その後もコナミ工業のゲームを発売していったスターン社はいよいよ初めて自社開発となる作品「Berzerk」(1980/12, Stern Electronics)をビデオゲーム業界へ投入することにしました。 奇しくもこのゲームはDefenderが脚光を浴びた1980年10月に開催されたAMOAエキスポで披露されましたが、 Berzerkもまた人気を獲得することができたゲームのひとつとなりました。 その結果、AMOAエキスポ自体も注目を集めることに繋がりました。
Berzerkは自機を操作して迷路状フロア内を突破していくというアクションシューティングゲームで、 フロア内に存在するプレイヤーを襲ってくる殺人ロボットをショットで撃破しながら出口を目指していきます。 迷路の壁は「高圧電流が流れている」という設定があり触れるとミスとなります。 フロア内に存在する殺人ロボットをすべて破壊すればボーナス点が入りますが、これはクリアの必須条件ではありません。 そのボーナス点を獲得しようと もたもたしていると「スマイルマーク」で描かれた無敵キャラクタ「イビル・オットー」が出現してプレイヤーを苦しめます。 このイビル・オットーは現代的な永久パターン防止キャラの先駆け的な存在と言ってもよいでしょう。 Berzerkは敵ロボットが音声合成でセリフを話すようになった世界初のビデオゲームでもあり、 非常に臨場感を持たせたゲームに仕上がっていました。 しかし、その臨場感の高さがこのゲームの仇となってしまったのです。
1981年1月、このゲームで遊んでいた19歳の若者ジェフ・デイリーは、 何とかハイスコアを叩き出そうとしてとても熱心にプレイしていました。 彼は16,660点というハイスコアを叩き出したのですが、そのハイスコアが表示された後、 突如、心臓発作を起こして亡くなってしまいました。 この1件が報じられ、Berzerkは注目を集め、さらに人気を集めることになりました。 しかし、そのことが更なる悲劇を生んでしまうことになります。 ジェフ・デイリーの事件から約1年後の1982年、 Berzerkの名人プレイヤーだったピーター・ブロコウスキという18歳の少年は、 50分という短い時間でトップ10に表示されるリストの中へ2つのハイスコアを乗せることに成功。 しかし、2回目のハイスコアが表示された後、ジェフ・デイリーと同じように心臓発作を起こして亡くなってしまいました。 彼らはいずれもハイスコアが表示された直後に心臓発作を起こしたという点と20歳未満の若い少年である点で共通していますが、 ゲームとの因果関係は現在でも不明です。 ただ、ひとつ言えるのはBerzerkはそれ以降、「危険なゲーム」と呼ばれるようになったことです。
そのような事件があった後もBerzerkには続編である「Frenzy」(1982/10, Stern Electronics)が開発されていました。
Berzerkとの違いはいくつかあり、ショットで破壊するとロボットの動きに影響を与えられる
「発電所」、それから「セントラル・コンピュータ」が設けられました。
発電所はロボットの動力装置であり、破壊することでロボットの動きを止められるようになります。
セントラル・コンピュータはロボットを統制する制御装置であり、
これを破壊することでロボットがたどたどしい動きになります。
これらのギミックが加わったことにより、ゲームに幅が出るようにもなりました。
また、一番の違いはイビル・オットーを破壊できるようになった点です。
しかし、イビル・オットーを破壊してしまうと、ビッグ・オットー・ルームという部屋へ飛ばされ、
ビッグ・オットーから吐き出された4匹のイビル・オットーとの戦いとなってしまいます。
4匹のイビル・オットー初めからトップスピードで襲ってくるため、
非常に難易度が高く、クリアは難しいでしょう。
そのようなことも手伝ってか、Frenzyはそれほど人気を得ることなく市場から消えていくことになりました。
他社がギャラクシアンを追従する中、 ナムコはギャラクシアンのゲーム性を更に発展させた続編「ギャラガ」(1981/9, ナムコ)を開発しました。 ギャラガの操作はギャラクシアンと同じく2方向レバーで「ファイター」と呼ばれる自機を左右に動かし、 ボタンでショットを発射するというものでしたが、 今度は単発ショットではなく、2連射できるようになっていました。 これは敵の動きがスピーディになったことに対応させたものでしょう。 このゲームでの目玉は「合体によるパワーアップ」で、 それはムーンクレスタと同じコンセプトのものです。 しかし、合体方法はドッキングステージで行われるものではなく、 プレイヤーが自分で合体したいときにある程度コントロールできるようにデザインされている点で異なっています。 ギャラガでは敵のボスエイリアンと呼ばれるキャラクタが「トラクタービーム」というビームを発射して自機を捕らえようとしてきます。 このビームに掴まってしまうと捕虜となり、残機がひとつ減ってしまいます。 ところがそのボス・ギャラガから捕らわれた自機を奪還すると合体して「デュアル・ファイター」となることができ、 力を合わせて反撃することができるというアイディアに昇華されているのです。 しかし、誤って捕虜となっている自機を撃ってしまうとそのまま残機を失ってしまうというリスクや、 合体して横幅が広がった分、自機の移動範囲が狭まって不利になるというリスクなど、 うまくバランスが取られており、ゲームをよりスリリングなものにしているのです。
ギャラガには他にもたくさんのアイディアが盛り込まれています。 数ステージごとに出現する「チャレンジングステージ」では、 綺麗な軌跡を描いて飛んでくる敵キャラクタをすべて撃墜することで最大10,000点を得るという大チャンスが待っています。 ギャラガはエブリエクステンド、つまり自機が数万点ごとに増えるように設定されているゲームであり、 チャレンジングステージでいかに高得点を取るかがゲームを長く遊ぶためのカギになっています。 チャレンジングステージでは敵は弾を一切撃ってきませんから、 プレイヤーは点数を稼ぐことに集中できるようになっています。 高得点を狙うポイントは他にも、 ギャラガが変形し、3機に分裂して飛来する「特殊編隊」と呼ばれるボーナスキャラクタの存在があります。 特殊編隊を3機全滅させると1,000 〜 3,000点のボーナスが入ります。 この特殊編隊の存在によって、単に敵を撃ち落とそうとするプレイヤーをトリッキーな動きで誘って、 少なくなりつつあるギャラガがすぐに絶滅させられないようにステージ内を撹乱してくるのです。
また、しっかりとゲームの中には緩急ができるように作られている点も見逃せません。 例えば、ボス・ギャラガが攻撃している最中に撃破すると3秒間だけ敵のミサイル攻撃が収まります。 他にもギャラガ自体の数が5匹以下までに減ると激しい「波状攻撃」をしかけてきます。 ギャラガの動きも通常とは変化して自機の周りを一回転するなど、 よりトリッキーな動きをしてプレイヤーを苦しめます。 特にデュアル・ファイターになっている場合は激突されて破壊されることが多く、 最後の一匹まで気が抜けないようになっています。
以上のような豊富なアイディアを盛り込まれ、調整期間だけでも半年をかけたギャラガでしたが、
社内での評判でもショーに出品された際のオペレータ達からも非常に厳しい評価が下されました。
それは見た目がギャラクシアンに似すぎているという指摘でした。
しかし、いざ発売されてみると何ヶ月経ってもインカムが落ちないという予想に反した状態に陥りました。
そのゲームの良さはプレイヤー達が一番に理解し、それをインカムという形で証明したのです。
ギャラガは発売以来、常に高いインカムを保ち続け、
ゲームが2年間もの間リピートして製造されるという超ロングヒット作品となっていったのです。
その後も人気はなかなか衰えず、発売から4年ほど良好なインカムが得られたそうです。
また、なぜか女性にもウケが良かったことでもギャラガは画期的でした。
ウケた理由は不明です。ゲーム進行のテンポの良さ、爽快感など、色々要因があるかもしれません。
また、パックマンのヒットでゲームセンターに女性プレイヤーが増えだしたことも背景にあるとも言えそうです。
ただ、女性にも受けたシューティングゲームは後にも先にもこのギャラガくらいしかないようです。
画面をスクロールする技術が生まれてくると、それを生かした作品が出現するのはある種、必然となってきます。 その先陣を切ったのが縦横自在、全方位に任意スクロールできる「ボスコニアン」(1981/11, ナムコ)というシューティングゲームでした。 ボスコニアンは8方向レバーを使って自機を8方向へ移動させながらボタンでショットを撃ち、 敵の基地をすべて破壊するというシンプルな内容のゲームでしたが、 ボタンを押下すると前後に同時発射されるようになっており、 四方八方から襲ってくる敵に対して有効で攻めながら、あるいは逃げながら攻撃できました。 敵の基地はいわゆる宇宙ステーションで、 六角形の頂点にそれぞれ破壊できるドーム型のポイントと中心に開閉するコアがあります。 この宇宙ステーションを破壊するには2つの方法があり、 「すべてのドームを破壊する」、もしくは「中心部を破壊する」という選択肢を与えられています。 ドームをすべて破壊すれば高得点を得られますが、敵の攻撃は徐々に激しくなっていき難しくなっていきますし、 コアを破壊すれば素早く安全に破壊することができますが高得点を得られません。 この2つのトレードオフを取りながら、自分の腕に合わせて戦略を変えていくことができるのです。
画面は2つの領域で構成されており、プレイフィールドとサブフィールドに分けられています。 サブフィールドには戦況を教える「コンディション」やターゲットを映す「レーダー」が備え付けられおり、 プレイヤーはそれらを見ながら操作しなければなりません。 プレイフィールドとサブフィールドを交互に確認しながら遊ぶ、というのには少しばかり慣れが必要となりましたが、 音声合成を使った戦況報告やレーダーを見ながら戦うという臨場感のある戦闘はそれまでのゲームでは中々味わえない本格的なものでした。 前年に同じ画面構成を用いたアクションゲーム「ラリーX」(1980/11, ナムコ)を発売していますが、 そのフィーチャーを使った新しいタイプのシューティングゲームを生み出したのです。
このボスコニアンはSpace War!とはある意味親戚とも呼べる作品で、 やはりエドワード・スミスの「レンズマン」シリーズを参考にしています。 「宇宙海賊ボスコニアン」という命名は同小説の「宇宙海賊ボスコーン」から、 ミサイルの名前「アイヒ」「エッドール」「プルーア」も「アイヒ人」なども異星種族の名前から得られたものです。 このような話を聞くとSpace War!から約20年を経てこれらを繋ぎとめているエドワード・スミスのスペースオペラの世界、 これがどれほど素晴らしいものだったのかを表しているような気がします。 それからボスコニアンはポスターのイラストレーションには長岡秀星を起用したことでゲーマー以外の間でもとても話題となりました。 長岡秀星は1970年に渡米し、「カーペンターズ」や「アースウインド&ファイヤー」のジャケットを手掛けたことで有名なアーティストです。 丁度ボスコニアンが発表された1981年、 東京新宿の伊勢丹美術館で第1回目の展覧会が開催(*1)されました。 展覧会には10万人を超える来場者が訪れ、同美術館の動員記録を作りあげることになりました。 このような天才画家でしたから、彼の手掛けたポスター欲しがったファンも非常に多かったといいます。
そのような逸話を生むほどに作り込まれたボスコニアンではありましたが、 発売したときにはそれほどヒットしませんでした。 スクランブルなどに比べて戦略性が高く、サブフィールドをうまく使いながらゲームをこなしてくということが、 当時の平均的な腕前を持っていたプレイヤーにとっては難易度も少しばかり高かったのかもしれません。 先鋭的すぎた、とでも言えば良いのでしょうか。 しかし、後年となってから再評価され「世に早く出すぎてしまった名作」と言われるようになりました。 7年経った1988年、電波新聞社によりX68000へ移植され、アレンジ移植共々高い評価を得たことがそれを物語っていると言えるのではないでしょうか。
ボスコニアンの発売された翌年、コナミからも全方位任意スクロールのゲームが発売されました。 時空を超えながら敵を撃破していくというSF要素を取り入れた「タイムパイロット」(1982/11, コナミ)です。 タイムパイロットは8方向レバーで操作し、ボタンでショットを撃つという点ではボスコニアンと同じでしたが、 自機の方向転換が行われる際には滑らかに回転し、その方向にもショットを撃つことができるようになっていました。 ショット自体も連射が利くように設定されており、 ぐるぐると回転しながらショットをまき散らすことで画面上の敵を一掃することができるというゲームデザインが光った作品でした。 ゲーム中には絶えず敵キャラが出現しプレイヤーを狙ってきますが、 一定数の敵を撃破すると大型の敵が出現、それを倒すことでステージクリアとなります。 また途中のステージには中型機が出現するのですが、 この敵構成は後年に手掛けるゲームへ引き継がれることになります。
このゲームはを作ったのは1981年にコナミへイラストレーターとして入社したばかりの新入社員だというから驚きです。 イラストレーターで入社したはずの岡本吉起がイラストの仕事ではなく開発に回されました。 担当するゲームは当時の上司が企画した教習所をモチーフにしたドライブゲームだったといいます。 ところが岡本はその企画をつまらないものだと感じており、 上司のゲームを開発をしているフリをしながら、 上司にバレないようにタイムパイロットの企画をプログラマへ伝えて勝手に作り上げてしまったのでした。 当然のことながら上司が企画したゲームの開発はまったく進んでおらず、時間だけが過ぎて行ってしまいます。 もう、どうにもこうにも後戻りできないという段階になってしまい、岡本は意を決して上司に披露したのですが、 もちろん上司の大目玉を食らいます。 一方、会社は仕方がなくなってしまい、それをそのまま発売することにしたのです。 ところが蓋を開けてみれば記録的な大人気となってしまいました。 以後、上司は岡本に対するる態度を一変させることになったという逸話はあまりにも有名です。
このゲームは発売年数が近いこと、同じく全方位任意スクロールシューティングゲームであることも手伝って ナムコのボスコニアンと比較されることが多いです。 タイムパイロットはボスコニアンとどこが違うのか、それは親しみやすさや遊びやすさでしょう。 ボスコニアンはメリハリの少なく同じような戦闘を繰り返すのに対し、 タイムパイロットは明確に敵の難易度が上がっていき、 ステージごとに個性を持った敵が襲ってきます。 また、大型機というボスキャラクタを倒すという明確な手順がありました。 操作面ではボスコニアンは敵の攻撃の激しさに対して2連射しかできませんでしたが、 タイムパイロットは6連射まで可能で、なおかつボタンを一度押すだけで3発ずつ発射されるという「セミオート連射機能」が備わっています。 従って、それほど連射が得意ではない人でもそれなりに爽快感を得ることができるようになっています。 これは非常に遊びやすさを追求した結果でしょう。
それからボーナス点の豊富さも見逃せません。 敵編隊を倒した際に得られるボーナス、 中型機を倒したときに得られるボーナス、 そしてパラシュートで落ちてくる仲間を助けたときに得られるボーナスがあります。 敵編隊で得られるボーナスは、 編隊の出現時に鳴った効果音の終わりから約4秒程度でボーナスを得る権利を失うという制限があり、 激しい戦闘の中でもアグレッシブに敵を攻めなければ得られないという駆け引きを生んでいます。 また、ザコより強く、ボスよりも弱いという多少やっかいな性格を持った「中型機」という存在は、 それまでのシューティングゲームにはほとんどなかったアイディアです。 そして仲間を助けるボーナスは、連続して助けると最初の1,000点から最高5,000点まで上昇していくため、 敵の攻撃をかいくぐりながら助けに向かう必要があるという攻防一体のプレイを求めることになっています。
岡本吉起はその後に携わるゲームでもそうですが、
それまでに発売されたゲームのエッセンスを見抜き、
バランスよく自分のゲームに取り込んでいくというセンスがズバ抜けて高いクリエイターと言えるでしょう。
この異才の持ち主が数々の名作シューティングゲームを産んでいくことになることはまた時を置いて語ることにしましょう。
1983年、スペースインベーダーに匹敵するほどのブームを巻き起こした「ゼビウス」(1983/1, ナムコ)が発売になります。 ゼビウスは縦スクロールをするシューティングゲームで、 空中の敵には「ザッパー」、地上の敵には「ブラスター」と呼ばれるショットを当てて、 エリアの先を目指すというシンプルな内容のゲームです。 エリアは全部で16あり途方もありませんでしたが、スクランブルで採用された「戻り復活」の欠点を補い、 エリアの70%地点まで何とか辿り着けば次の面へ行けるように遊びやすくなっていました。
このゼビウスは大ヒットしたスクランブルを中心に市場リサーチを行って開発されたゲームで、 最初の案は「スクランブルを縦にしたような感じのもの」というコンセプトを下地にし、 「自機は8方向に移動できるようにする」「ショットの撃ち分けをする」「縦スクロールする」 という3点のアイディアをベースにプランニングされました。 開発当初はベトナム戦争などをモチーフにし、 シャイアン族の名を取った「シャイアン」という仮名で呼ばれていました。 このシャイアンの作成に当たっては「Z80A」というCPUを3つ用った高機能な基盤が新調され、 ナムコの中で唯一「神」と呼ばれる凄腕プログラマ、深谷正一がプログラミングを行っていました。
しかし、プランナーが突如としてアフリカへ行くと言って会社を去り、 まだ新入したばかりだった遠藤雅伸へ引き継ぎされることとなってしまったのです。 さっそく企画を膨らませて行こうと開発コードを「パンツァー」と変更したところ、 運悪く社員会議でゲーム名が「ゼビウス」と勝手に決まってしまいました。 新入社員の遠藤はその会議に出席できる立場になく、 勝手に決まってしまったゲーム名を前にしばらく途方にくれてしまいました。 そこで遠藤が取った行動は過去のヒットゲームの分析を行い、 そのゲームの中にある疑問を自問自答する、というものでした。 この手法を用いて世界観を膨らませた遠藤は、 「伝説巨人イデオン」(1980, サンライズ)などのアニメにインスパイアされ、 異星人との接触を軸にSFの舞台を構築していくことになるのです。 その舞台の構築で副産物となった小説「ファードラウト伝説」、 異星人の世界で通用する言葉「ゼビ語」を作り、 徐々に「ゼビウス」というゲームにおける世界のありかたを明確にしていったのでした。
ゼビウスの開発は新人が行うこともあり、 会社の中ではノータッチだったため、遠藤は自分のやりたいようにゼビウスを作り上げていきました。 そんな一方でこの新入社員の行動を「行き過ぎたものである」として認めようとしなかった他部署のトップリーダー達も存在しました。 そんな人間関係を象徴するエピソードがあります。 プロジェクトがある程度進んだ段階でゼビ語を初めて社内発表することになったとき、 遠藤は本社に呼び出され、 「ロシア語よりわからん言葉を作って、貴様は何様のつもりだ!」と叱責を受けてしまいました。 自機の名前が「ソルバルウ」などと言われてもなかなか馴染まないからです。 何を隠そう遠藤自身も「何か違うかな? まぁ、大丈夫か」と思っていたのでした。 しかし、社長からの「遠藤の好きにやらせてみようじゃないか。今の若い子はみんなこれだよ。」というフォローがあり、 無事に開発を進めていくことができるようになったのです。 ゼビウスが完成に近づくにつれ、噂を聞いた他の部署の人達が遊びに来てゼビウスをプレイするということを繰り返し、 発表を行う前から社内ではある程度の人気を得ていました。 遠藤直属の開発部長からも「遠藤くん、これは新しいゲームのスタンダードになるよ。」と言われ、 一緒に作業していた先輩たちの後押しも手伝って無事に発売されるようになったのです。
そのような社長の機転や上司の推薦がなければ、もしかしたらゲーム業界の発展は数年遅れてしまっていたかもしれません。
ゼビウスというゲームはそれくらい素晴らしい「発明」なのです。
ゼビウスが作ったミステリアスな謎や隠れキャラ、 そしてそれを求めるプレイヤー達の好奇心をとても上手に刺激し、 ゲームを攻略して突き詰めて遊ぶコアなゲーマーを生み出す引き金となりました。 後に日本のゲーム業界を牽引していく人間達です。
当時、高校生だった「うる星あんず」(*2)こと大堀康祐、 そして友達の中金直彦、古田秀人は1月にゲームセンターへ入荷されたゼビウスをやり込み、 互いに攻略の腕を競っていました。16エリア突破は中金が1番乗りでしたが、 それから先はどこまでスコアが伸ばせるかの勝負となり、 これ以上スコアを稼いでもスコアの表示が変わらないという1,000万点(*1)へ最初に辿り着いたのは大堀でした。 2月21日のことです。続けて古田(3月30日頃)、中金(4月2日)と続きます。 この3名がゼビウス1000万点を日本で最初に達成した3人です。
発売からほどなくして1000万点というスコアを叩きだし、ゲームを極めてしまった大堀は、 まだ世に浸透していなかった「ゼビウスの素晴らしさを解ってもらいたい」という思いを胸に、 友達の中金直彦とふたりでミニコミ誌「ゼビウス1000万点への解法」、通称「ゼビ本」を作り始めます。 そのゼビ本が完成したのはゼビウスの発売から1ヶ月足らずという短期間ですが、 これを可能にしたのは大堀が1000万点を達成した前後から、 「片方のプレイヤーがゼビウスをプレイ、もう片方がマップを筐体の横に張り付いて描いていく」ということを行っていたからでした。 大堀達は完成させたゼビ本の出版許可を得ようとナムコへ見せに行きました。 ナムコからは「ミニコミ誌程度の出版ならいい」と回答を得られた彼らは印刷を行い発売、 僅か4日で100部を完売しました。 この完成度の高い攻略本は大人気なり、版に版を重ね、結局3ヶ月程度で5版1000部を完売するという事態となったのでした。
近しい時期、田尻智もゲームサークル「ゲームフリーク」を立ち上げていました。 サークル名は彼が大好きだった映画「Freaks」(1932, アメリカ)をもじったもので、 「熱狂的にゲームが好きな人」と言う意味を込めてつけたものです。 このゲームフリークからもやはりミニコミ誌が発売されました。 ゲームフリークの創刊号は原稿をコピーしてホチキスで綴じただけのシンプルな小冊子でしたが、 20ページ足らずの紙面の中にはこれぞとばかりに発売されたばかりのゲームをレビューした記事、 テクニックを紹介する記事などが盛り込まれた内容の濃いものでした。 田尻は出来上がったその創刊号を当時新宿3丁目に存在していた同人誌専門店「フリースペース」へ持ち込み、 委託販売をしてもらうことにしました。 田尻がゼビウスと出逢うのはその創刊号が完成した正にその日だったと言います。
ゲームフリーク創刊号は完売しただけではなく、感銘を受けた読者達から手紙も届きました。 その手紙の中には盟友となる杉森建からの手紙も混じっていました。 ゲームフリークの制作に関わりたいと思った杉森は、 冊子にビジュアル的な要素が欠けていることを指摘し、 イラストを描いて手伝いたいという旨を申し出ました。 田尻はこの申し出に対してとても喜び、そして「アミューズメント・マシンショー」の会場で会う約束をします。 同じ趣味を持った者同士であったことも手伝って尽きることないゲーム話で盛り上がり彼らはすっかり意気投合、 以降、杉森とふたりでゲームフリークは編集作業をされていくことになります。
その後、田尻と出会った大堀は「ゼビウス1000万点への解法」の発行をゲームフリークへ委託、 改訂を行われたそれは「ゲームフリーク別冊第一號」として再販されるようになりました。 ゼビ本がゲームフリークへ委託された後も希望者は後を絶たず、 購入の依頼は有に2000通を超え、毎日毎日配達に来る郵便局員からはイヤミを言われたという逸話を残しています。 刷っても刷っても殺到する注文をさばいた結果、1年後まで増版を重ねることになりました。 この大ベストセラーとなったゼビ本は後に「攻略本市場の開拓者」と呼ばれるようになっていきます。
*2 マイコンベーシックマガジン付録のスーパーソフトマガジン(vol.1)で大堀が語ったところによれば、 この名前は内輪で「うる星やつらの同好会を作ろう」という話が出たときに決めた「会」の名前だそうで、 「うる星+AN+複数形のS」で「うる星あんず」と読むところから、だとか。 一般に言われている「うる星やつらのファンだから」は話が端折られてしまった可能性が高いですね。
ゼビウスはグラフィック面でもミュージック面でも、そしてゲーム内容でもそれまでのゲームと一線を画したとてつもない「発明」なのです。 少ない色数しか使えない当時のコンピュータの性能を生かして、 あえてグレースケールを採用して金属の光沢を表現するのと同時に、 奥行き方向へキャラクタがアニメーションするようにしたことで立体感を出し、 無機質なBGMとは裏腹に、キャラクターのアクションに対して細かく設定された効果音をつけました。 そしてそれを支えているのが作り込まれた設定資料です。 ゲームはそれまでプレイヤーが敵を撃破していく理由付けとして簡単な目的は設定されていませんでしたが、 ここまで詳細なストーリー性を持たせたものはありませんでした。 (画像は遠藤雅伸公式ブログのエントリ「ゼビウス軍兵器開発史メモ」より一部引用)
発売時につけられた「プレイするたびに謎が深まる!!」というのキャッチコピーに表現されるように、 ゲーム中に隠された多くの謎は多くのプレイヤーを魅了していきました。 その中で一番の謎は後に「隠れキャラ」と言われるようになる、 地中に埋もれた「ソル」と呼ばれる八角錐のキャラクタと 「スペシャルフラッグ」と呼ばれる自機が増える(*1)黄色い旗の存在です。 ゼビウスの自機には照準がついており、地上物を捉えると赤く点滅するようになっています。 プレイヤーはこの赤い点滅を頼りに敵が破壊できるかを判断する指針として利用できるようになっていました。 遠藤は「では、地上の何もないところで照準が赤く点滅させるのはどうだろうか」と思って地中の中にソルを隠したわけです。 一方、スペシャルフラッグは会社にバレると絶対に直せと言われると思い、 照準を赤く点滅させることはせず、その存在を会社に隠して発売しました。 もし、問い詰められても「きっとバグでしょう」とシラを切るつもりだったと、 約20年経った頃、巨大掲示板2ちゃんねるでカミングアウトしてしまいました 作り込まれた資料以上に、なんとも抜け目がないところはさすがと言えるでしょう。
そのキャッチコピー通り、深い設定に裏付けられた数々の謎に魅了され、 すべて知り尽くしたいと思うプレイヤー達は後を絶ちませんでした。 しかし、それは多くの憶測を生むこととなり、 いくつものデマが口コミでプレイヤー達の間に広まっていきました。 「バキュラは256発撃ちこむと破壊できる」というものや「ナスカの地上絵のある場所を撃ちこむとボーナス点が大量に入る」というものでした。 前者はゼビウスのプログラムを解析したプレイヤーが内部に設定されたデータ値を誤読してしまったことが原因で、 後者は遠藤がゲームセンターでゼビウスをプレイしたときに近辺でブラスターを乱射したことが原因です。 それを見ていたプレイヤー達が「開発者が撃ちこんでいるからにはきっと何か隠されているに違いないのではないか」と誤解したのです。 当時は口コミネットワークが発達していたので、それを仲間達へ話をしたところ、次々に伝播してあっという間に広まってしまったのでした。 遠藤がブラスターを乱射していた理由は「スペシャルフラッグの場所を思い出せなかった」からです。 なぜならスペシャルフラッグの設定は遠藤がやったものではなかったためです。
また、エンドレスでゲームが進むゼビウスには「終局がおとずれる条件がある」というものも存在しました。 ことの始まりはATARI社が扱っていたアメリカ版セビウスのインストラクションカードだったと言われています。 そのような憶測を持ったプレイヤーが遠藤に問いただしたところ、 「遂に発見されちゃったか!」というリップサービスをしたというのが噂を大きなものにしてしまったようなのでした。 そのとばっちりを一番に受けたのが後に「ポケットモンスター」で大成功を収める田尻智で、 「ゼビウスの終局は存在するのか?」という問いを受けた田尻が、 その真相を確かめるべきあちこち聞いて回ったことが噂を広げる原因となり、 デマを流している人間であるという濡れ衣をかけられてしまったのです。 今まで築いてきたゲーム仲間達から信用を失い、誰にも口を聞いてもらえなくなるという憂き目にも会いました。 しかし、最後に彼を救ったのは遠藤自身で「君を救ってあげようか?」とゲーム仲間の誤解を解いて仲直りさせてくれたのでした。
ゼビウスは作り込まれたゲーム性ばかりが取り沙汰されていますが、 実はコピー対策までさえもしっかりやっていたことが特筆に値するゲームです。 黎明期に作成されたゲームであるスペースインベーダーや同II、 ストラテジーXなどの裁判ではまだプログラムの規模も小さいほうであったため、 ゲーム構成から配点、登場キャラクタの動きまでを別紙にすべて羅列してもまだ何とかなるレベルでした。 しかしゼビウスほど面数も多く、キャラクタも多くなってくるとなかなかそうもいきません。 そこで遠藤雅伸はゼビウスの基盤がコピーされたり、改変された場合に備えて巧妙な対策をふたつほど施しておいたのです。 ひとつはプログラムの中へ、もうひとつはデータの中へ隠されました。
ひとつ目の仕掛けは「プログラムを実行させる」ことでチェックを行うのですが、 それは「眼には見えない地上物を破壊する」というトリガが必要となっていました。 この見えない地上物へブラスターを当てるとプログラムが実行されるようになっていましたが、 まさか何の変哲もない森の中にこのような仕掛けがあることは夢にも思っていなかったでしょう。 プログラムが実行されるとその判定結果がメッセージとして表示(*1)されます。 正規品のメッセージには作成した会社がナムコである旨、それからプログラムを行ったのが「EVEZOO」(*2)、 つまり遠藤雅伸自身であることが表示されますが、 正規品ではない場合には「これはデッドコピーした基盤である」という旨が書かれたメッセージが表示されるようになっています。 正規品かどうかを見分ける方法はタイトル画面で表示されている「namco」の文字と、 このメッセージの中で表示される「namco」の文字を比較するということで行われ、 例えばタイトル画面から「namco」という文字を消して社名を隠すという単純な対処を行った場合に引っ掛かるようになっていました。
もうひとつの仕掛けは最終的に表示される画面の中に隠されていました。 ゼビウスはエリアとエリアの間に必ず森が出現し、「ここでエリアが変わりますよ」ことをプレイヤーに伝えるようになっていますが、 このエリアの切り替わりが行われる森の中に紛れ込ませて「namco」という文字が現れるようになっていました。 それはエリア7から8の間の森の中にあるのですが、エリア7のマップの最後の最後の左端に設定されており、 エリア7でミスしてエリア8へ行ったり、エリア8でミスしてやり直した際には表示されないようになっていました。 そして、エリア7の最後でテラジが来るのもまた巧妙な配置です。
そのようなふたつの対策があるとは知らず、「ゼビオス」と「バトルス」というふたつのコピーゲームが作成されました。 ゼビオスのほうは森の中に施された対策には気づいたのですが、メッセージのほうには気づきませんでした。 一方、バトルスのほうはメッセージのチェックプログラムには気づいてメッセージを改造するということを行ったのですが、 森の中のロゴには気づかず、見事にどちらのコピーゲームもこのコピー品対策に引っ掛かったのです。 遠藤はゼビウスの不正コピー品に対して行われた民事訴訟で法廷に立ち、 これらの対策が施してあることを証明してコピー品の違法性を主張し、見事退けたのです。
*2 子供の頃につけられたあだ名。「エブゾーオ」と読む。エビゾーではない。
ゼビウスはゲームミュージックブームを巻き起こすことになります。 元YMOの細野晴臣はゼビウスの熱狂的なファンでスタジオの機材を使ってゼビウスの音楽を再現するなどしていました。 そんな中、ログイン1984年2月号の企画として行われた「細野晴臣と遠藤雅伸の特別対談」をキッカケに、 「VIDEO GAME MUSIC」(1984/4/25, YENレーベル)の企画が動き出しました。 対談から半月も掛らないうちに東京都文京区護国寺のLDKスタジオでレコーディング(*1)が行われ、 ナムコからは収録予定となった「ゼビウス」「ボスコニアン」「ギャラガ」などの基盤(*2)が持ち込まれました。
1978 〜 1983年まで世界中にテクノポップブームを巻き起こした音楽ユニットYMOの元メンバと、 その製作プロデューサーをしていた小尾一介が手掛けたことで一層の注目が集まったこともその要因でしょう。 実は、YMOは古くからゲームミュージックに着目しており、 ゲームの音源をモチーフとした演奏をシンセサイザーを使って既に行っていたのでした。 YMOのファーストアルバム「イエローマジックオーケストラ」(1978/11/25, アルファレコード)では 「コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ”」「コンピューター・ゲーム “インベーダーのテーマ”」を発表しており、 その可能性を既に見極めていたと言えるかもしれません。 細野晴臣も前述の対談の中において「スペースインベーダー以前からビデオゲームの可能性を感じていた」と言っていたほどです。 このVIDEO GAME MUSICの登場は、スペースインベーダーのブームでもなしえなかった 「ゲームミュージック」というジャンルを生み、そして、ゲームの音楽がそれ自体がひとつの音楽性を持つ素材であると認知されていくようになります。 この「VIDEO GAME MUSIC」の成功に続き、 同年8月にはやはり細野晴臣がもう一枚のアルバム「スーパーゼビウス」(1984/8/25, アルファレコード)をプロデュース(*3)します。
ゲームミュージックには一定のマーケットがあると手ごたえを感じた小尾は、 1985年に日本初となるゲームミュージック専門レーベルとなる「GMO(Game Music Organization)」を発足、ゲームミュージック業界を牽引し始めました。 さらに翌1986年には独立してサイトロン・アンド・アート社を設立します。 このときに参画したメンバはナムコから独立した遠藤雅伸が興した会社「ゲームスタジオ」のメンバ達でした。 遠藤雅伸はゼビウスにより、ゲームの地位を押し上げただけでなく、 ゲームミュージックの地位も押し上げることに貢献していたことになります。
このように徐々に注目が集まり始めるタイミングあったゲームミュージックに対し、 まるで申し合わせたかのように同年代に発売されたゲームの多くがPSG音源からFM音源へと移行するタイミングが重なり、 そして、その新しい音源を使った良質なゲームミュージックが多数発表されたことで、 ゲームミュージックのマーケットは爆発的に拡大していくことになりました。 同時にそれまでゲーム中に流れる音楽は単なるBGM(Back Ground Music)として捉われていたゲームミュージックが、 この頃から敬意を払って「VGM(Video Game Music)」という愛称で親しまれるになり、 ひとつの芸術性を表す「作品」として一目置かれるように変移していきます。 向上していくゲーム画面の表現力に合わせるかのように、 それに負けないくらいゲームを盛り上げるための音楽を各社が競うように追求するという好循環が生まれるようになっていきました。
そのような背景にあったゲームミュージックブームは留まることを知らず、 1988年にはサイトロン・アンド・アート社とポニーキャニオン社とが「サイトロン・レーベル」を設立、 各メーカーの音楽チームが結成したバンド「S.S.T.BAND」(セガ)、「ZUNTATA」(タイトー)、 「矩形波倶楽部」(コナミ)、「J.D.K.BAND」(日本ファルコム)、「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」(カプコン)、 「ゲーマデリック」(データイースト)などが前面に押し出されるという異常事態を作りだしました。 活動するバンドの数は年々増え続け、時が経つにつれてゲームミュージックはとても身近なものとなっていきました。 1990年2月に発売された『GRADIUS III』(1990/2/21, キングレコード)のアルバムはオリコン初登場で第26位にランクイン。 この快挙をもたらしたことを受け、1990年8月25日には「ゲームミュージック・フェスティバル'90」が日本青年館で開催されました。 ゲームミュージック・フェスティバルは年を追うごとに参加バンドが増えて行くようになり、 バンドの枠を超えてセッションをするようになり、 そしてついには「スチャダラパー」「たま」「ピンクサファイア」などのミュージシャンとのジョイントライブを行うほどにまで発展しました。 コナミ矩形波倶楽部もT-SQUAREのリーダー、安藤ひろまさがプロデューサーになるなどしたこともあり、 ゲームミュージックはゲーム業界を支える大きな屋台骨へとなっていったのです。
*2 実はこの時、スーパーゼビウスの基盤も持ち込まれていた。
*3 ゼビウスというゲーム、そしてスーパーゼビウスのアルバムからインスピレーションを受けたサザンオールスターズの桑田佳祐は、 コンピュータ導入の第1曲目となった「マチルダBABY」のイントロや歌詞へ反映した。桑田自身もゼビウスの大ファンであり、ゼビ本を持っていた。
日本におけるマイコンブームは高度なテクニックを持ったプログラマを多く産み出しました。 前述の中村光一や堀井裕二がスポットライトを浴びることになった第1回ゲーム・ホビー・プログラムコンテスト。 このコンテストへ「森田のバトルフィールド」を出品し、見事グランプリを獲得した森田和郎もそんな一人でした。 森田は戦略的なゲームプログラムを得意とし、 マイコンで作成したオセロゲームのプログラムを投稿して戦わせるというアスキー主催の大会「マイクロオセロリーグ」 においては独自のプログラムテクニックを用いて挑戦をし、 第3回目の大会では「13手読みするオセロ」のプログラムを見事に完成させ、優勝したほどでした。
森田は自らを「ゲームデザイナーではなく、ゲームプログラマー」と分析するように、 どちらかと言えばテクニック先行タイプのプログラマで、 おぼろげながら見えていた新しいプログラムテクニックを用いれば、 「背景とこまごま移動するキャラクタを同時に画面へ描画できるのではないか」と考えていました。 「森田のバトルフィールド」もマイコンゲームでは初となる画面スクロールを用いたウォーゲームでしたが、 このテクニックをさらに進めた画面スクロール技術を使い「ゼビウス」に似たオリジナル作品をエニックスからの依頼で作成することになります。
アーケードゲームのゼビウスのハードウェアに比べれば、 正に貧弱とも言えるPC-8801というマイコンへゼビウス移植するというのは「できないだろう」と考える人が多く、 中でも背景を滑らかに、また、高速な処理でスクロールさせることは「ムリだ」と言われていました。 当初は森田自身もそのように考えていたといいます。 しかし、森田は反骨心が強く、ムリと言われるとあえて挑戦したくなる気風の持ち主で、 当時を振り返った雑誌のインタビューで森田は「ボクはプログラムテクニックで勝負するタイプなんです。 できないと信じられているコトをしてみるのが趣味なんですね。 だから、それが話題になったりしてウケたりすると嬉しいですね。」と語っている通り、 不可能を可能にするということにあえて挑戦したのです。
ゼビウスのようなゲームを作成するに当たって、 まず森田が重要だと捉えていたのはゼビウスの持っている 「スピーディなゲーム進行」と「立体的なグラフィックス」という本質的な面でした。 そして、それをプログラムし、表現するPC-8801というマイコンにおいて 「そのスピードをどう再現するか」「8色のカラーで立体感のある画面をどう設計するか」という技術的な面からアプローチし、 この4つの命題を解決するためだけに熟考し、その期間だけで3ヶ月を費やすことになります。 そして完成した命題を解決するためのテクニックが「パレット機能を使ったキャラクタの重ね合わせ」(*1)でした。 PC-8801が持つ、パレット機能とバンク切り換えを利用し、 ブルーのバンクに背景、レッドとグリーンのバンクに空中物を描画して合成することで地上物に立体感を出しながらも、 ゲーム進行のスピードを確保するということに成功したのでした。
解決策を思いついた森田はそれから僅か3ヶ月という期間でプログラミングを行い、 「アルフォス」(1983/6, 森田和郎/ランダムハウス)を完成(*1)させました。 アルフォスはゲーム中はBGMがなく、効果音のみしか鳴らないことが唯一の欠点でしたが、 「パソコンの限界を超越したスクロールゲーム」というキャッチコピー通り、 当時発売されていたどのゲームよりもスムーズにスクロールし、 また、ゲームの内容も森田の意図どおり、ゼビウスが持つエッセンスをうまく引き出すことに成功していました。 そのことから「あのゼビウスが家で遊べる!」という話題性を呼び、あっと言う間に高い人気となり、 発売直後にログインなどのソフトウェアランキングで1位を獲得することになるのです。
*2 アルフォスはゲームはあまりにゼビウスに似すぎているため、 ゼビウスを発売したナムコから許諾を得た上で発売されることになりました。 後年にはパソピア7版も発売された。
ゼビウスはスペースインベーダーやギャラクシアンがそうであったようにパソコンへの移植が期待されていました。 しかし、ゼビウス用に設計された基盤はCPUを3つも利用しているため当時のパソコンに比べて非常に性能が高く、 移植は不可能であると当時の記事でも喧伝されていました。 ところがゼビウスの発売から10ヶ月足らずしか経っていない1983年12月、 誰もがゼビウスが稼働することすら夢に思わなかったであろうパソコン「PC-6001」で動かせる移植版ゼビウス第1号が発売されたのでした。 その「タイニーゼビウス」(1983/12/20, 電波新聞社)をプログラムした松島徹は当時、中学生でした。 不可能と思われていた移植を可能にしたのは天才ならではの大胆な発想の転換があったからでした。 それは「画面の解像度を高くしていって綺麗にしていく」のではなく、 「画面の解像度を犠牲にしても処理スピードを確保する」というものでした。 しかし、思い切って画面の解像度を低くしたことは他にもメリットを生みました。 それはキャラクタのデータも少量で済み、一度の読み込みですべてを読み込めるようになったことでした。 これはとても重要なことです。なぜなら当時のプログラムが収録されるような標準デバイスはテープが多かったからです。
松島は自ら作成したタイニーゼビウスのプログラムをマイコンベーシックマガジンのメインコンテンツである 「プログラムコーナー」へ投稿しました。 これを製品化まで持って行ったのは電波新聞社の藤岡忠でした。 通称「なにわ」と言えば膝を叩く方も多いでしょう。 元々、藤岡は高校生時代に同級生と「ラシャーヌソフト」を興して電波新聞社へ卸していました。 これが丁度、電波新聞社がナムコのライセンスを取り、ラシャーヌソフトへ委託したタイミングでした。 ラシャーヌソフトで2本程度の移植を行った後、大阪で小さい企業をやっていても成功するか判らないこともあって電波新聞社へ入社したのでした。 既に電波新聞社とナムコとの行き来が多かった藤岡は、投稿されたプログラムをナムコへ持ち込み、遠藤雅伸にチェックをお願いしました。 遠藤から帰ってきた答えは「こんなソフトにゼビウスの名前は与えられない」という手厳しいものでした。 しかし、それは「マップがまったく違う」「パックマンが出現してしまう」など2次的創作品に見られる自己満足的な面が目についたからでした。 それでも藤岡はめげず、自宅で作業している松島へナムコの指摘点をフィードバックし、 それを修正、郵送してもらい、そのプログラムの修正版をナムコへ持ち込み、更に修正を重ねていきました。 時には電波新聞社の開発室へ泊まりがけで来てもらい、デバッグをしてもらうこともあったそうです。 もちろん、松島が中学生だったこともあり、父親が保護者として同伴していました。 2 〜 3ヶ月ほど繰り返し粘りましたがなかなか許諾は得られませんでした。 そこで藤岡は「ゼビウスはダメなら『タイニー』ではどうでしょう?」と提案を行うことにしました。 ナムコ側も藤岡の熱意に根負けをしたのか最終的にはOKを出し、「タイニーゼビウス」は無事、発売されたのでした。
タイニーゼビウスの翌年、藤岡自身もゼビウスの移植を行いました。 シャープ社のパソコンテレビ「X1」で動くゼビウスです。 「最初は絶対に移植は無理だ」と思って取りかかったというこのゼビウスは、 電波新聞社の開発スタッフが全員ゼビウスをやり込み、「このゲームがどういうものかを頭に叩き込む」ことから始めたそうです。 この時代は移植に際してオリジナルの内部資料をメーカーから提供されることがなかったためです。 従って藤岡は自らプレイを行うだけでなく、マイコンベーシックマガジンで発表されたゼビウスの記事、 別冊「Super Soft Magazine」で攻略記事を書いていた うる星あんずのプレイをビデオに撮り参考にしながら手探りで移植を終えたそうです。 プロジェクトの開始から半年、そのような熱意を込めて完成したゼビウスを遠藤雅伸にチェックしてもらう段までこぎつけましたが、 その時に帰ってきた答えは「はっきり言ってゴミですね」という非常にショックな一言でした。 藤岡は隣に基盤を置きながらの移植を行ったこともあり、移植の完成度には自信を持っていました。 だからなおさらショックを受けたといいます。 しかし、遠藤にしてみれば当時のゲームの中でも群を抜いて綺麗だったゼビウスのグラフィック再現にばかり注力され、 タイニーゼビウスで克服する努力がなされていた処理速度の問題をおろそかにしている点にガッカリしたのでした。 アクションが主体のゲームはプレイヤーが細かいアクションを起こしても対応できるように処理速度を高め、 プレイヤーの動きを即座に画面へ反映しなければならないものだからです。 しかし、藤岡はめげませんでした。 社内に働きかけ発売を1ヶ月延期、社長からも「そこまで言うならやってみろ」と後押しをもらって、 更に細かい調整を行い、遂にはナムコの許諾を得ることに成功したのです。
こうして無事に発売されたX1版ゼビウスはその熱意がプレイヤーにも伝わったのか、
1984年のパソコンゲーム史上で空前の大ヒットとなりました。
このゼビウスをやりたいがためにX1を購入するユーザもいたそうです。
また、電波新聞社はこのゼビウスを本格的に遊んでもらえるよう、
ジョイスティックの同梱発売を行ったこともX1の購入意欲をかき立てた要因となりました。
以降、電波新聞社は「完全移植」を期待されるような先駆けとなっていくようになります。
タイニーゼビウスの登場は更なる天才プログラマの能力を引き出すことになりました。 PC-6001で発売されたタイニーゼビウスを遊んで初めてゼビウスに触れた古籏一浩は、 それを遊んで「ゼビウスとはこういうものか。これなら作れるかもしれない」と思い立ち、 MZ-700というパソコンを利用して「タイニーゼビウス for MZ-700」の開発に着手しました。 開発当初はMZ-700に付属されていたS-BASICを使ってプログラムを組み始めましたが、 地形などを表示する前の段階で既に非常に処理が重かったため、 もっと処理を高速に行えるマシン語を勉強しはじめました。 運良く先代機種のMZ-80Kのマシン語について勉強できる本を手に入れることができたため、 サンプルゲームとして載っていたブロック崩しを解析するなどしてマシン語を身につけました。 移植作業を行いながら研究のためにX1版ゼビウスを購入し、本体であるX1を持っていなかったため、 パソコンショップの店頭まで自分のソフトを持って行ってプレイするということをやっていました。 移植を始めて約半年が経過した頃、本物を遊んでみようと思い立った古籏はゲームセンターへ赴きました。 今までパソコンでしか見たことのなかったゼビウスはこれだけスムーズに動くものであったのかとビックリしたと言います。
マップやキャラクタはタイニーゼビウスではなく、 限りなくアーケード版のものに近付ける努力をしました。 しかし、どうしてもパソコンの性能的な限界があり、 例えば照準を点滅させることはできませんでした。 そこで「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ということで、 アーケード版に比べてソルを多めに配置したりとアレンジすることにしました。 また、パソコンのメモリにも限界もありました。 メモリを節約するためにマップの一部を短めにし、 巨大なアンドアジェネシスを出現させるために更にプログラムの容量を切り詰めるという、 パソコンの限界と格闘する日々が続きます。 最終的にはアンドアジェネシスを出現させるために、 一番最初に実装を行ったキャラクタ「ザカート」を切り捨てるしかなかったといいます。
そのような努力を重ねて更に半年ほどかけて開発したプログラムは、無事1985年9月にプロトタイプ版が完成しました。 古籏もタイニーゼビウスを松島と同様、マイコンベーシックマガジンへ投稿していましたが、 投稿したものは完成前だったので「完成したらまた送ってくれ」という旨の返事があったといいます。 そこで根気を絶やさず遂には完成させました。 マイコンベーシックマガジンへはこの時に再度送付したのですが一向に音沙汰がなかったそうです。 自分が思い入れを作ったが陽の目を見ない、それは非常に寂しいものでしょう。 そこでOh!MZへ送付することにし、見事1986年11月号にて発表される運びとなりました。 当初はOh!MZの読者もマシンの性能を鑑みて半信半疑で記事を読んでいるという状況でしたが、 記事を読んで地面のスクロールに影響されない巨大なアンドアジェネシスが出現するなど完成度が高いことを知り、 実際にプログラムを入力してみてあまりの出来栄えの良さに感嘆の声をあげたといいます。
日本での評判が良くなかったMZ-700は既にMZ-1500など後継機種が発売されるなどしていましたが、
このプログラムの出現によりパソコン自体の評価を変えてしまうという大事件を巻き起こしてしまったのです。
そうです。それまで使っていたユーザはMZ-700の限界を引き出せなかっただけなのです。
古籏はその後も「スペースハリアー for MZ-700」などを半年ほどの短期間で作成し、
遂には「MZ-700に不可能はない!」とまで言わしめるに至ったのです。
その世界観で多くの人を惹きつけたゼビウスは、 非常に短期間のうちに研究されつくされ、極められてしまうことになりました。 ゲーム自体がループゲームであったこともあり、 最終エリアである16エリアを突破できる実力があれば、 長時間ずっと遊ぶことはそれほど難しいことではなかったからです。 ですからプレイヤー達はもう普通のゼビウスでは飽き足らなくなってしまうようになっていくのは時間の問題でした。 これは遠藤雅伸にとっては想定外のできごとでした。 16エリアまで楽に到達できてしまうようなプレイヤーがそれほどいるとは思っていなかったからです。
ナムコはこのようなプレイヤー達の登場に危機感を抱きました。 日本と同時に発売したアメリカ、ヨーロッパでも、 やはり同じように1,000万点を軽々と到達してしまうプレイヤーが登場するのではないかと懸念したのです。 それは海外のゲームセンター事情が日本国内とは少々異なっているという点もありました。 1回のゲーム代が10 〜 50円程度で遊べてしまうのです。 ですから安いゲーム代で長く遊ばれてしまっては商売になりません。 そこで低料金諸国用特殊バージョンとして「スーパーゼビウス」を開発したのです。 この特殊バージョンのゼビウスのテストのため、 日本で1000万点を到達した最初の3名(大堀、古田、中金)が駆り出されました。 しかし、テラジ・ギドスパリオ・ジアラが同時攻撃してきたり、ブラグザカートが同時に3〜6個出てくるなど、 遊ぶに堪えないレベルのものでした。
中でもスペイン版は非常に難しい難易度に設定されていました。 それはこの国におけるゲーム代が10円と一番安かったからです。 アーケードゲームはゼビウスに限らず「DIPスイッチ」と呼ばれる切り替えスイッチを設定することで、 ゲームの難易度を調整することができるようになっていますが、 スペイン版ゼビウスでこのDIPスイッチの設定を変更して最高難易度である「ウルトラ」に設定すると大変難しいゲームとなります。 それはゲーム開始音楽が鳴っている最中にいきなりギドスパリオが飛んでくるなどするそうです。 そのような「ウルトラ・スパニッシュ」(通称、ウルスパ)の話を聞きつけた日本のゼビウスフリークがこれを望まないわけがありません。 お蔵入りしたそれを何とか日本国内で販売できないかと渇望するようになっていきました。
そこで遠藤は16エリアを越えて当たり前の腕前を持ったプレイヤー達だけに向けたスペシャルバージョンとして調整を行った 「スーパーゼビウス」(1984, ナムコ)を作ることにしました。 さらにいくつかのご褒美もつけました。 ゼビウスのときにバグで出現して噂が広まってしまった「ファントム」「ギャラクシアン」などに設定づけを行って出現させ、 ゼビウスフリーク達が作り上げた点数稼ぎ技である「ジェミニ誘導」を行いやすいよう、 ブラグスパリオの点数を上げた(*1)のです。 しかし、このような難易度では通常販売に耐えうるレベルのものではなかったと判断した遠藤は、 ナムコの直営店だけに出回るように配慮しました。 マニアが望むものは市場が望むものとは一致しないからでしょう。 それはゼビウスが発売された1980年代より遥か未来に証明されることになっていきます。
ゼビウスが開発されている1982年、ナムコへ入社してきた中谷始は企画課においてゼビウスと出会います。 そのとき中谷は「企画が斬新でグラフィックは綺麗、個々のキャラクタは性格付けがハッキリしていて面白い。 これは天才の仕事だ・・・」と、入社早々に唸りをあげるハメになりました。 「こりゃぁ、ついていけないかもな。」と一瞬頭によぎりましたが、 「いや! いつかはやってやるぜ」と自分を奮い立たせたといいます。 そのような心意気の中、初めて任されたゲーム「ギャプラス」(1984/4, ナムコ)の企画に着手しました。 プログラマと2人と基礎地となるプロトタイプを作成に入り、 企画のGOが出るとチームをアサインして数名体制で開発に入りました。 このギャプラスチームには1983年に入社したばかりのサウンドコンポーザー、 小沢純子((彼女が入社してすぐにゲームを特定せずに作った曲は「ゲームには使えない」と言われボツとなったが、 遠藤雅伸がその曲が使えるゲームを作ってやる、と言ってドルアーガの塔を作成した話はあまりにも有名。))も加わりました。彼女もこれが初仕事のゲームとなります。
中谷はグラフィックの1ドット、ラインの1本という細部にまでこだわり、 何事も自分で試してみてゲームとの親和性を確かめないと気が済まないという徹底したゲーム作りを行いました。 その徹底ぶりはキャラクタの動きが気に入らないという場合にプランニングから練り直して見直すというほど情熱的なものでした。 仕事では与えられた時間内で、求められたクオリティを持ったものを仕上げることが要求され、 そのトレードオフを取るのも能力のひとつです。 しかし、中谷はこだわりを想いとしてゲームに込めるため、残業はもちろん休日出勤を厭わずに作業を続けました。 そのような状態であったこともあり、「いつ会社に行っても中谷さんが仕事をしている」と同社の社員は驚きを隠せなかったといいます。
「ギャラガ2」という名称で開発されていたギャプラスは、 トラクタービームをファランクスビームへ転化し、 ギャラガにあったデュアルファイターのアイディアを「敵の捕獲」という形に置き換えたのでした。 捕虜となった自機のアイディアも「ブラスターヘッド」や「コンポーネント」に置き換えられ、 ギャラガのアイディアを非常に良い形で吸収、昇華したのでした。 それだけに留まらず、ギャラクシアン、ギャラガ、ギャプラスへと時代を経て作成された続編ゲームに対し、 それぞれのゲームの設定を繋ぐ理由のほか、敵キャラがブラスターヘッドや自機のパーツを持っている理由、 敵キャラクタの性格付けや、その性格によって動きとして表現される理由までも設定されました。 このような詳細な設定はおそらくゼビウスに感嘆し、影響を受けた面もあると言っても過言ではないでしょう。
残念ながら4年間のロングヒットとなったギャラガには及びませんでしたが、
多彩なパワーアップや変化に富むステージ、隠し機体、そしてほとんどのステージで出現させることができるスペシャルフラッグの存在など、
一部のマニア達に対してはとても人気を博しました。
中でもスペシャルフラッグを出現させることがゲームを長く遊ぶために必須となっていたため、
「フラッグ表」と称されるステージと得点を調整するための早見表などが開発されるなどしました。
それらを駆使してこのゲームを極めようと1000万点を目指したプレイヤー達もいました。
しかし、ギャプラスのスコアは千万の桁まで用意されており、
一体限界がどこまであるのかを確かめるべく、
複数人数で変わるがわる交代しながら数十時間を掛けてプレイした人達((まだ風営法が改正される前だったため、ゲームセンターで24時間遊べたのです。))も現れました。
中には60時間ぶっ通しでプレイし、ハードウェアを壊してしまったという人もいたそうです。
しかし、時代は着実にスクロールをするシューティングゲームへと移っており、しばらくするとゲームセンターの片隅に置かれて行くようになってしまいました。
■参考文献(順不同)
「昭和史辞典 金融恐慌からインベーダー・ゲームまで」 毎日新聞社、1980
「ゲーメスト」 新声社
「ログイン」 エンターブレイン
「ASCII」 エンターブレイン
「I/O」 工学社
「マイコンBASICマガジン」 電波新聞社
「アルカディア」 エンターブレイン
「ゲームマシン」 アミューズメント通信社
「アミューズメントジャーナル」 アミューズメントジャーナル
「テレビゲームのちょっといいおはなし1 〜 5」 CESA
「Creative Computer Magazine」 Creative
「警察白書」 警察庁
「電子技術」 日刊工業新聞社
「中央公論」 中央公論社
「エコノミスト」 毎日新聞社
「朝日ジャーナル」 朝日新聞社
「毎日新聞」 毎日新聞社
「朝日新聞」 朝日新聞社
「読売新聞」 読売新聞社
「ジュリスト」 有斐閣
「日本経済新聞」 日本経済新聞社
「電波新聞」 電波新聞社
各裁判判例(スペースインベーダー事件ほか)
■参考サイト
日経トレンディネット:スペースインベーダー30周年 ―タイトーが目指す新しいゲームビジネス―
マイコミジャーナル:スペースインベーダー、誕生25周年 - 名古屋にてイベントが開催
MZ-700版タイニーゼビウスの作者サイト
MZ-700版タイニーゼビウスの作者へのインタビュー
2chスレッド「XEVIOUSを懐かしむ」(EvezooEND自らが回答)